ジョン・アンダーソン、トレヴァー・ラビン、スティーヴ・ハケット、キャメル、そしてエイジアのアルバムにも参加したサイモン・フィリップスは、今年2月6日に67歳になりました。





◼️サイモン・フィリップス・インタビュー

2021年2月6日

By David West(Prog)


サイモン・フィリップスがこの街にいることはすぐにわかる。

ロニー・スコッツでは、ステージから客席にこぼれ落ちそうなフィリップスの巨大な17ピース・ドラム・キットを見逃すことはできないし、彼の並外れた両利きの演奏も同様に紛れもないものだ。

フィリップスは1970年代にロンドンのトップ・セッション・ドラマーとして頭角を現し、1990年代にTOTOに参加するためにカリフォルニアに移って以来、そこでドラマー、エンジニア、プロデューサーとして活躍している。


セッションと並行して、フィリップスは1988年のアルバム『Protocol』でソロ・キャリアをスタートさせたが、2013年の『Protocol II』までソロ名義に戻ることはなかった。

現在、彼はProtocol名義での4枚目のアルバムをサポートするためにツアーに出ている。

人生の大半をスーツケース1つで過ごしてきた彼は、ツアー中の曲作りに適応している。


「『Catalyst』という曲は、ほとんどキーボードのない飛行機の中で、コンピューターに向かって、文字通りMIDI五線譜をドラッグして音符を入れながら書いたんだ。そのクールな点は、キーボードのシェイプをデフォルトにする代わりに、ハーモニーを純粋に自分の耳に頼ることができる点だ。私のように限られたキーボード奏者だと、極めて限られた音しか出せないから、ただその形を繰り返すことになりがちだ。目の前にキーボードがないときは、文字通りキーボードと音符の間隔を想像しなければならない。それに、かっこいいハーモニーを思いついてメロディを乗せるのではなく、メロディを書き下すから助かる」


プロトコルのバンドは名人芸を披露している。

現在のライヴでは、ギターにグレッグ・ハウ、ベースにアーネスト・ティブス、キーボードにオトマロ・ルイズを迎えている。

「ポール・マッカートニーの曲を思い浮かべるなら、それはいつもメロディなんだ。偉大な歌、ポップ・ソングには何かある。ドン・ヘンリー、ビリー・ジョエル、誰であろうと、メロディなんだ。ジャズやフュージョンの問題点は、メロディが二の次になってしまうことなんだ」

プロトコルのバンドは名手揃いだが、フィリップスは決してチョップを弾きまくるような音楽にはしたくないという。



プロトコルのプログレッシヴ・フュージョンにはファンキーな側面もある。

「特に複雑な音楽を演奏するときは常に重要だ」とフィリップスは言う。

「プロデュースという意味では、信じられないほど複雑な音楽を持っている人が私のところに来ると、いつもそれが問題になる。デレク・シェリニアンとやったように、曲をバラバラにしてしまうんだ。これは17拍子である必要はない。9拍子で完璧だし、グルーヴも出せる。

それは、特に自分自身の作曲において、とても意識していることだと思う。何よりもまず、複雑なものであってもグルーヴがあること。基本的にずっと足をたたいていられるんだ」


アンディ・ティモンズとスティーヴ・ワインガートの脱退後、ハウとルイズが加入したことは、バンドメンバーがプレイヤーとしてだけでなく、人間としても気が合うかどうかを発見しなければならないことを意味する。

「ツアーに出るまで、それはわからないものだ」とフィリップスは言う。

「最初のツアーはたいてい素晴らしくて、慣れが出てくるのはいつも2回目のツアーだ。ハネムーンは終わったんだ」


彼は現在のラインナップを「今までの中で最も冷静なバンド」と表現しており、ドラマーがしばしばハンドルを握り、皆の神経を試しながら、密接な関係で旅を続けている。

「ツアーの最初のほうは、ルノーのエスパスで行ったんだ。私は素早く運転するのが好きだから、いつも『ハイパードライブでみんな冷静かな?』って確認するんだ。次の日には、みんなの信頼を得るために少しスピードを上げて、突然ヨーロッパのフリーウェイを走り出すんだ。みんなクールだよ」


Protocol III(2015)


プロトコルでジャズクラブをツアーすることは、TOTO、ジェフ・ベック、ザ・フーとアリーナで演奏した時とは違った経験にならざるを得ないが、フィリップスは、会場に適応し、本当に重要なことに集中することを失わないことが全てだと信じている。

「私の頭の中には、あれが必要、これが必要というロックンロールのことはもうないんだ。昔からいる先輩ドラマーに聞くと、彼らはいつも『部屋に合わせて演奏しろ』と言うんだ。もし部屋が狭くて反射的だったら、演奏の仕方を変えなければならない。音響に敬意を払い、配慮しなければならない」


「うまくいっていないときはいつも、もっとハードにプレーしようとする傾向があるが、レンガの壁にぶつかっている。少し気持ちを軽くして、音楽に身を任せるんだ。頑張りすぎないことだ」

そのポイントを説明するために、フィリップスは自分がエンジニアを務めたレコーディング・セッションを思い出す。

「ブランドン・フィールズがソプラノ、デイヴ・カーペンターがアップライト、ピーター・アースキンがドラムで、アーティストはイタリア人のピアノ奏者だった。1テイクやって、ピートが、よし、もう1テイクやろう、と言った。私はコントロール・ルームでほとんど床に倒れて笑っていたよ。美しいテイクだった。彼が言ったことはとてもクールだった。ただ音楽を演奏するんだ」


「ラフサウンドの部屋では、そういう場面でやらなければならないことがある。バンドで演奏するミュージシャンにはいつも言っているんだけど、もし彼らが音の鳴り方やミスにとらわれすぎてしまうことがあるのなら、私はミスを演奏して、それをうまくやりなさいと言うんだ。それがジャズのすべてだ。それで終わりじゃないんだ」



2014年にTOTOを脱退したフィリップスだが、今でもそのバンドのファンは彼のライヴに足を運んでいる。フィリップスはTOTOのドラマーとしてだけでなく、3枚のアルバムのエンジニアリングを担当し、曲作りにも携わった。

「だから、自分のバンドでない限り、バンドに参加することはないだろうと思っていた。というのも、長く完全に関与し続けるためには、他にやるべきことがあるはずだからだ」と彼は言う。


しばらくして、バンドはフィリップスのスタジオでレコーディングを始めた。

「ルーク(スティーヴ・ルカサー)が、私がプロデュースとエンジニアリングを担当していたレコードで一緒に仕事をするまで、それはゆっくりとしたプロセスだった。それで、私の家にTOTOのメンバー全員を集め、ガレージにギター・リグを用意して、『Through The Looking Glass』をレコーディングしたんだ。

私はとても深く関わった。でも、2008年にマイク・ポーカロがルー・ゲーリッグ病でプレーできなくなってからは、本当に解散してしまったんだ。

すべてが頭打ちになり、私たちには休息が必要だった。長い休養が必要だったと思う。結局、ルークも『これ以上はできない』と言った。

その後、2010年に再結成したんだけど、1年に1カ月、2、3回のツアーに出るだけなら構わなかったんだけど、ルークはもっとやりたかった。だから、『もう21年で十分だ。他の音楽活動をしたいんだ』と言った」


2010年以降のフィリップスの活動のハイライトのひとつは、ピアノのHIROMI(上原ひろみ)とベーシストのアンソニー・ジャクソンとのトリオ・プロジェクトでの共演だったが、このグループはフィリップスが体調を崩し、ジャクソンが脳卒中で倒れた2016年7月のロンドンのザ・ジャズ・カフェでの公演以来、無期限の活動休止に入っている。

「アンソニーと私はひどい状態だった。私はとても痛くて、とても具合が悪かった。アンソニーはあまり調子がよくなかった。彼は遅かった。バンを降りるときに転んだり滑ったりしないように、私たちは本当に注意深く彼を見なければならなかった。空港では2人とも車椅子に乗っていたので、ヒロミ・トリオはヒロミと(ツアー・マネージャーの)マリオの3人で2台の車椅子を押すことになった。それで終わったんだ」



フィリップスは2ヶ月で回復に向かったが、ジャクソンはまだ療養中である。

フィリップスは哲学的に言う。

「でも、また何かやるだろうね。そう願うよ」


出典:

https://www.loudersound.com/features/simon-phillips-a-drummers-tale


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