イエス(続き

パトリックはイエスのツアーに参加するために、曲をすべて覚えなければならなかった。

6週間かけて覚え、車の中でも聴いていた。

また、親友であるメインホースのベース奏者をキーボード・エンジニアに迎えた。

ステージ上のキーボードは7台から14台に増え、キーボードを入れるフライトケースを35個も持っていたと言う。

シェパートン・スタジオで最後の34回のリハーサルを行い、アメリカツアーの準備をしていたとき、バンドには192個のフライトケースがあり、53人のローディがいたと言う。

まさに「大サーカス」だった。


『リレイヤー』のレコーディングに6週間かかり、更に2週間ほどリハをしてツアーに出た。

19741120日にマディソン・スクエア・ガーデンで演奏したときは、数分間スタンディング・オベーションが続いた。

当時のイエスは、コードやハーモニーだけでなく、キーボードやベース、ギターとの相互作用が非常に複雑だったと言う。アクセントや拍子記号など、すべてが複雑だった。

しかし、このマディソン・スクエア・ガーデンでのライブで、彼は自分が曲を暗記していることに気づいて、楽譜を床に投げ捨てた。



1975年、メンバーはソロアルバムを作ることにした。

まずスティーヴ・ハウの『ビギニングス』に積極的に参加するように頼まれた。

タイトル曲「Beginnings」のアレンジとオーケストラの指揮を頼まれ、彼はレコーディングではチェンバロも弾いている。

アランからは 『ラムシャックルド』のビデオ撮影にカメオ出演するように依頼され、クリスからは『未知への飛翔』 への参加を頼まれた。

このアルバムでビル・ブルフォードと初めて共演したが、8年後、彼は「モラーツ・ ブルフォード」を結成している。


イエスとのツアー中、印象に残っているライブはルーズベルト・スタジアムだという。

さらに1976612日にはフィラデルフィアのJFKスタジアムでピーター・フランプトンが前座を努め、13万5千人もの観客を集めている。(下の写真)



ゲイリー・ライトもJFKで演奏したが、パトリックによるとゲイリーは、1969年にモントルーで開催されたジャズフェスティバルに参加する3日前に、メインホースからドラマー、ブライソン・グラハムを盗んだと言う。

グラハムはメインホースに入った時はまだ16歳で、彼をスイスに連れて行くのに母親に許可をもらったそうだ。

JFKでのゲイリー・ライトのドラムにはスライ&ザ・ファミリー・ストーンで活躍したアンディ・ニューマークがいた。彼はパトリックの『The Story of I』と『Out In The Sun』で演奏したドラマーでもある。

ゲイリー・ライトと一緒にいたのが、TOTOを結成したポーカロ兄弟だった。


ツアー終了後、パトリックはスイスでアルバム『究極』製作中にイエスを辞めている。

辞めた経緯は以前書いたとおりです。 



ザ・ストーリー・オブ・アイ


時間を少し遡る。イエスとの2度目のツアーが757月に終了した後、ブラジルに行くことにしたが、南米の国々もたくさん回った。

コロンビア、ペルー、チリ、アルゼンチン、そしてブラジルに立ち寄った。

ブラジルに着いたとき、『I』のコンセプトがあった。イエスでナッシュビルに滞在していたときに思いついた。

彼はブラジル音楽をよく知っていて、パーカッションの大所帯が欲しいと思っていた。2人のスルド、3人のパンデリオ、2音のアゴーゴなど、そして最高のキュイカ奏者が欲しいと思っていた。また、古い伝統的な楽器を演奏する80代後半の男性もいた。彼らと3日間セッションをして25本のテープを持ち帰った。

ベース奏者のジェフ・バーリンがこの『ストーリー・オブ・アイ』に参加したが、彼はバークリー音楽院を出たばかりで、プロとしての初仕事だった。まだ21歳か22歳だった。

レイ・ゴメスもこのアルバムに参加した。彼はイエスのもとで、バンドの一員として活動していた。



ザ・ムーディー・ブルース


1978年の5月、ロサンゼルスのAESコンベンションAudio Engineering Society)で、ハービー・ハンコックからヴォコーダーの使い方を教わった。

APHEXという会社の代表を頼まれ、ブラジルで代表を務めた。ブラジルに行く途中、時間があったのでマイアミに立ち寄った。

滞在していたホテルに、イギリスから電話がかかってきて、「知らないと思うが、あるバンドに参加しないか」と聞かれた。そのバンドとはムーディー・ブルースだった。

パトリックは彼に電話で、「サテンの夜」と「チューズデイ・アフタヌーン」 を歌ったと言う。

ブラジルに着くと、ホテルでFAXに「(1978年)717日にロンドンのデッカスタジオに来てくれ。オーディションをやる」と書いてあった。


ブラジルの後、パトリックはスイスに飛び、チューリッヒのオペラハウス、フォルクハウス劇場でピアノコンサートを行った。

また、ロンドンに行く前に、クロード・ノブスに誘われて、モントルー・ジャズ・フェスティバルで演奏した。

ブラジルから来たパーカッショニスト、アイアート・モレイラや、後にブラジル文化大臣となるジルベルト・ジルなどとの共演も企画してもらった。

そのコンサートの後、ロンドンに飛び、他のメンバーの前に到着した。

メロトロン3台、ミニムーグ4台、CS-80など、すべてのキーボードをセットアップし、チューニングした。「サテンの夜」、「チューズデイ・アフタヌーン」、「ティモシー・リアリー」をリハーサルして、準備をした。オーディションでは、ムーディー・ブルースは5年間休んでいたため、逆に曲の一部を教えたりしたそうだ。

その日ムーディーズの仕事を獲得した。



1979年にロサンゼルスで『ロング・ディスタンス・ヴォイジャー』に収録する曲の制作を開始した。

そこでパトリックは『二万二千日』のリフを思いついた。メロディックなリフは、もともとハ長調で書いたものがレコードではイ短調になってる。このメロディーは、パトリックが作曲した「子供たちの協奏曲」のメロディーで、1983年にビル・ブルフォードと一緒にレコーディングされている。

この時すでに3回のツアーを行っていた。

78年と79年はセッション・プレイヤーとして参加していた。

週末にブラジルに行きサンパウロで演奏したが、コンコルドに乗ってロンドンのリハーサルには欠かさず戻ってきた。

クリス・スクワイアの『未知への飛翔』のオーケストレーションを担当したアンドリュー・ジャックマンの弟であるグレッグ・ジャックマンがエンジニアとして貢献している。


『ヴォイジャー』のレコーディングは16週間の契約だったが、なんと65週間もかかったと言う。

ジョン・ロッジの曲では、パトリックのキーボードアレンジを、プロデューサーのピップ・ウィリアムズがオーケストラ用に書き起こした。そのとき「アレンジャーとしてクレジットされたいか、それともバンドのメンバーになりたいか」と聞かれたそうだ。そして彼は正式なメンバーになった。


『ヴォイジャー』の直前、1979年にパトリックはジュネーブでいくつかのアルバムを録音している。

そのひとつが『Future Memories Live on TV』だ。これは2日間で行われた。

『ボイジャー』のツアーの直前には、ルーマニアのパンパイプ・フルート奏者、SyrinxことSimion Stanciuとレコーディングをしている。


彼は大きな決断をしなければならなかった。

2回目にムーディーズがオーストラリアに行ったとき、ちょうど「The Stepfather」という映画のスコア制作を終えたところだった。

ジョエル・シルバーとジョン・マクティアナンに誘われて、メキシコで映画『プレデター』の第作を撮影することになった。

パトリックはこの映画のために仮のスコアを作ったのだが、彼らはそれをとても気に入り、この映画の全スコアを依頼した。

86年末、オーストラリアに行くことになったので、彼はムーディーズに残るか、『プレデター』の音楽をやるか、どちらかを選ばなければならなかった。

パトリックはバンドを選んだが、もし『プレデター』を選んでいたら、『ダイ・ハード』全作品を手がけることができたかもしれないと語っている。

(モラーツがムーディーズを解雇された時は、ちょっとしたいざこざがありました。詳細は割愛しますが、彼はもっとずっとムーディーズで活動したかったそうです)



フロリダ移住

パトリックは現在フロリダに住んでいる。

メキシコ湾沿いで、タンパから時間ほどのところだ。

1997年、彼は住んでいたロサンゼルスからフロリダ州オーランドに向かった。

Full Sail Real World Education2008年からはFull Sail University)のFull Sail Studiosでレコーディングをする予定だった。

93年にピアノアルバム『Windows of Time』を録音したのもこのスタジオである。

当時はフロリダで最も優れたスタジオのひとつだった。サウンドエンジニアはジョセフという人物で、オーランドのウィンターパークにあるAudio Playgroundのオーナーだった。

ジョセフはキーボードの熱心なコレクターで、当時は約650台も持っていたという。

パトリックはフロリダに引っ越し、その後3年間、録音と作曲を行った。

その間に600台のキーボードが追加され、合計1300台のキーボードがコレクションに加わり、Audio Playgroundはシンセサイザー博物館になった。その後、閉鎖されてしまったが、彼ははそこでかなり多くのレコーディングを行っている。

その後、オーランドから海の方に移動したが、彼は妻とロサンゼルス、アメリカの他の地域、スイスにいることに多くの時間を割いているそうである。


パトリックは1972年に買った最初のミニムーグをまだ持っている。

スティーヴン・ウィルソンがリマスタリングした『リレイヤー』のCDのブックレットに写真が載っている。



参考 : 2015年のインタビューから再構成しました。

https://musicguy247.typepad.com/my-blog/2015/09/patrick-moraz-an-interview-with-the-keyboardist-formally-of-yes-and-the-moody-blues.html