■108日(日本時間9日)はロンリー・ハート記念日



By ビクトリア・シャフラス、

クリストフ・ライム


1983108日、イエスはシングル「Owner Of A Lonely Heart」をリリースした。(アルバム『90125』は11月リリース)


紛れもないファルセット、キャッチーなリフ、キレのあるカウベルイエスの「ロンリー・ハート」は耳に残り、頭に残る。

ラインアップの混乱を経て、1983108日にリリースされたこのシングルは、彼らの基準からすると珍しくポップで、そのため最初で最後の1位を獲得することになった。

(注.米国ではビルボードとキャッシュボックスともに1位を記録した)

この曲がイエスに収録されることになったのは、偶然だったのだが。


少なくとも、トレヴァー・ラビンは1979年の『Owner Of A Lonely Heart』の制作過程をそう記憶している。

「トイレに行って、最初から最後まで全部曲を書いたんだ」

この記念すべき小用をした時、南アフリカのギタリストはまだロンドンに住み、プロデューサーやソロアーティストとして活動していた。



一方、海峡の向こう側では、音楽の嵐が吹き荒れ、イエスはラインナップの変更を繰り返しながらも1978年、パンクの黄金期に流行に乗り遅れた前作『トーマト』は、批評家を納得させることができず、その後のパリでのセッションも突然終了してしまった。

シンガーのジョン・アンダーソンが最初に、キーボードのリック・ウェイクマンが続いてバンドを去った。

その後、トレヴァー・ホーン、スティーヴ・ハウ、クリス・スクワイア、ジェフ・ダウンズ、アラン・ホワイトのラインアップは1980年の『ドラマ』を最後に解散してしまう。


ダウンズとハウは、エイジアを見つけ、フレッシュミートを求めてラビンに初めて会った。

しかし、ラビンは、この仕事の依頼を受けた時、自分の素材は他のところにあると思い辞退した。

ゲフィン・レコードは、これをちょっと生意気だと思い、すぐにプロデューサーの契約を解除してしまった。

ラビンは、こうして遠回しにスクワイアやホワイトと知り合いになり、より対等な立場で付き合えるようになる。


1982年にシネマプロジェクトを立ち上げたトリオは、イエスの最初のキーボーディストであるトニー・ケイも参加させた。

ホーンがミキシングデスクに入り、1983年半ばにはアンダーソンもマイクに戻った。

新しいバージョンのイエスが、ここで音楽を奏でようとしていた。


ラビンは、プログレとは無縁でいたいので、熱意は抑えている。

彼の曲は明らかにポップでプログレ的ではなく、特に『Owner Of A Lonely Heart』はそれを示している。

ポップな構成に技術的なギミックやさまざまな音響効果を加えつつ、ラビンの希望するラウドなサウンドも取り入れるという、中間的な方向性を見出したのだ。

中でもホーンは、シンプルな言葉に必要な磨きをかけて、歌詞を完成させている。

ラビンは決して満足しているわけではない。


ラビン、ホーン、アンダーソン、スクワイアの共同制作によるこの作品は、1983108日にようやく一般発売され、アメリカのビルボードチャートでポールポジションを獲得した。

1985年には『Owner』でグラミー賞にノミネートされ、アルバム『90125』もチャートで上位にランクされた。

バンド内では、ケイがビデオ撮影中に短期間仕事を辞めるなど、あまり陽の目を見ることがなかった。

しかし、ホーンが戻ってきたものの、なかなかホーンと打ち解けられず、次のアルバムのレコーディングは遅れてしまう。

Big Generator』の後、イエスは1988年に一時的ではあるが再び解散している。



出典 :



■この曲でクリス・スクワイアはライブで使っていたモレディアンCS-74ではなく、エフェクター内蔵のエレクトラのMPCアウトローで録音し、テレキャスターの音をミキシングしたと語っています。



またトレヴァー・ラビンによると、ホーンに紹介されたシンクラヴィアのシンセサイザーを初めて使って録音した曲だそうです。