■ ピーターが語るファースト・ソロアルバム

ヤン・アッカーマン、フィル・コリンズ、

スティーヴ・ハケット、ジョン・ウェットン



Artist : Peter Banks

Title : Two Sides Of Peter Banks

Year : 1973


フラッシュの枚目のアルバムをレコーディングしている時に、ソロアルバムの話があった。

僕はすでにソロアルバムを作るというアイデアを温めていて、フラッシュの中でやっていたことよりもずっと緩やかなものにしていた。

だからソヴリン(Sovereign Records)からのオファーを受けたんだ。

前払金はなかった。

マネージメント、レコード会社、代理店、出版社など、すべてリトルパックエイジに縛られたものだった。

僕たちは、ベン・ニスベットという一人の人物と契約していた。

正直なところ、僕は自分たちがいくら稼いでいるか、いくら使っているかということをあまり気にしていなかった。

自給自足というか、当時はそう思っていたんだ。

ソロアルバムを作るという話が持ち上がったとき、それを実現するのは大変なことだと思った。

当時、フラッシュはとてもとても忙しくて、休みの日は宝物のような日々だった。

ソロアルバムは、少ない自由な時間の中で録音しなければならないと思っていた。


ともあれ、ヤン・アッカーマンと出会ったのはこの頃だ。

彼がオランダでフォーカスと一緒に演奏しているのを見た。

僕たちはサポートバンドだった。

僕たちはフォーカスの前に出て、彼らが誰なのか何も知らなかった。

フォーカスは当時、イギリスでは無名で、アメリカでも全く知られていなかった。

でも、オランダやドイツではとても有名だった。

だから、フラッシュが登場して自分たちのセットをやって、それからフォーカスが登場した。

僕たちがステージを降りてからフォーカスが登場するまでの間に大きなギャップがあったのを覚えている。

観客はとても騒がしかったし、みんな酔っぱらっていた。

それに機材がどんどん壊れていくから、ちょっとカオスな感じだったね。

フォーカスが登場したとき、僕はステージの脇に立っていて、帰ろうとしたのを覚えている。

そのバンドのクオリティには本当に驚かされたよ。

幸運なことに、僕は小さなソニーのモノラル・テープ・マシンとマイクを持っていた。

それで、そのライブを全部録音したんだ。

今でも僕にとって特別なライブだよ。


ヤン・アッカーマンのギタープレイは、とにかくすごかった。

彼のような演奏は見たことがなかった。

彼はあらゆるトリックを駆使し、ジャンゴ・ラインハルトとジュリアン・ブリームを足したような演奏をしていた。

アッカーマンは丁度このような作品を発表していたんだ。

彼は僕が弾いたことのあるような、3連符のようなものや小さなリフを弾いたりしていたよ。

ボリューム・ペダルなしで、ギターのボリューム・ノブでそれをやっていたんだ。

これには本当に驚かされたよ。

こんなやり方は見たことがなかった。

彼はとてもソウルフルなプレイヤーだった。


それがヤン・アッカーマンとの最初の出会いだった。

そのライブはかなりカオスだったことを覚えている。

機材は壊れ続け、ハウスのPAもダウンし続けた。

ボトルも何本か投げられたし、ちょっとにぎやかな夜だったね。

その晩にアッカーマンに会って、その後フォーカスがイギリスに来たんだ。

僕はメロディメーカーのクリス・ウェルチに電話をかけて、フォーカスがいかに素晴らしいバンドであるかを伝えた。

ウェルチには「この人たちにインタビューして記事にしてよ 」と言ったんだ。

僕はこのバンドが好きだったから、フォーカスのことを広めていたようなものだと思う。

彼らはシングル 「悪魔の呪文」でかなり早い時期に成功を収めた。

確か全英1位で、アメリカでもとても良い成績を収めたと思う。


ヤン・アッカーマンは、当時僕が知っていたどのギタリストよりも先をいっていた。

実は彼と知り合ってから、フラッシュとフォーカスが一緒に全米ツアーをすることを思いついたんだ。

 「悪魔の呪文」はすでに全米チャートで上位に食い込んでいた。

フラッシュがフォーカスの前座を務める。

それは実現しなかったが、素晴らしいアイデアだった。

僕がやりたかったのは、まずフラッシュが登場する。

それからヤンと僕がギターだけで何かやるんだ。

その後フォーカスが登場して彼らのセットを演奏する。

そしてフィナーレはフラッシュとフォーカスが一緒にジャムるんだ。

プロモーターにとって最悪の悪夢だ。

音楽的に信じられないような、少なくとも非常に興味深いものになったと思う。


でも、少し話を戻すと、フォーカスが初めてイギリスに来たとき、僕は彼らのライブに何度か行き、ヤンもフラッシュのライブに何度か来た。

時間があるときはいつも一緒に座って、ヤンがギターをいろいろと教えてくれたんだ。

僕はとても熱心に学んでいた。

「これはどうやるんだ」「これはどう弾くんだ」と聞いていたよ。

するとヤンはいろいろと教えてくれた。

彼は当時の僕よりもずっと技術的に進んでいたんだ。

ヤン・アッカーマンからは、彼の演奏を聴いたり見たりするだけで、本当にたくさんのことを学んだよ。


そして「一緒にテープに録音してみよう」ということになった。

結局あるライブの後の夜、午前時くらいにアドヴィジョン・スタジオを予約した。

ヤンと僕は、とても小さな部屋に機材をセットアップして、彼のマーシャルと僕のマーシャルを片隅に置いた

そして、時々耳をつんざくような大音量で演奏し合ったんだ。

これらのジャムは録音され、僕のソロアルバム用に綿密に編集された。

ヤンと僕がジャムっているテープの長さは4時間くらいだったと思う。

もちろん、何も話し合っていない完全なフリーフォームの演奏だ。

テープ・オペレーターは文字通り何もすることがなく、リールを交換するために彼を起こさなければならなかった。

これらのジャムは、トラック15インチのオープンリールに録音された。

その後、24トラックに移された。

この素材は僕のソロ・アルバムのサイドの基礎になったし、フラッシュのサード・アルバムのための作業用ピースも僕のソロ・アルバムに使ったんだ。

スタジオでその場で作ったものもあるけどね。


アウトテイクス写真


フラッシュのマイクやレイ、フィル・コリンズなど、他のミュージシャンもアルバムにゲスト参加してくれることになった。

フィルの場合は、電話で「僕のアルバムに参加してくれないか」と頼んだら、「いいよ」と快く引き受けてくれた。

みんな標準的なギャラをもらっていて、フィルはいつも税金対策のために小さな請求書と領収書を持っていたんだ。

僕はいつもそれに感心していた。

フィル・コリンズはいつもとてもプロフェッショナルだった。

僕のアルバムに参加したもう一人のゲスト・アーティストは、ジェネシスのスティーヴ・ハケットだった。

最近(199911月)彼と偶然会って、ロザラムのイベントでギター本で一緒に演奏したんだ。

彼とはいつかデュオ・ギターのようなことをやってみたいと思っている。

ヤン・アッカーマンとやったように、僕らには似たようなアイデアがある。

当時、フラッシュとジェネシスはかなり親しいバンドだったんだよ。

フィルをよく知っているからね。

彼はよくマーキー・クラブでイエスの演奏を見ていた。

フラッシュはかなり大きなトラックを持っていて、それをとても誇りに思っていた。

僕らはそれを買って、巨大なPAシステムも一緒に買った。

ローディたちの間では、フラッシュのローディがジェネシスに機材を貸したり、逆にジェネシスがフラッシュのローディに機材を貸したりするようなことがあったんだ。

彼らは良い関係を築いていた。


ジェネシスのライブには、機材の調子を見るためによく顔を出していたよ。

フィル・コリンズと一緒にゾックス・アンド・ザ・レーダー・ボーイズというジャム・バンドでも演奏した。

なぜそのような名前になったのかはわからないが、僕は時々そのバンドのメンバーの一人だった。

フィルはこのグループと一緒にライブに出かけ、当時ジェネシスはかなり人気があったので、彼は会場をいっぱいにしていた。

当時はジェネシスの人気が高かったからね。

何を演奏するのか、何の手がかりもなく、ただ座っていることもあったよ。

本当に自由な感じだった。


スティーヴ・ハケットの話に戻るけど、僕のアルバムに参加してくれるように頼んだら、彼は数時間だけスタジオに来て、いくつかのアイデアを書き留めてくれた。

でも残念ながら、彼を思うように使うことができなかったんだ。

彼のギタープレイは、僕とはまったく違う。

スティーヴ・ハケットを見るとロバート・フリップを思い出すよ。

彼はある特定のギター・ラインを作り上げるのだけど、当時は確かに自発的なギタリストではなかった。

でも最近彼と話したら、最近は即興演奏に夢中なんだそうだ。

僕のアルバムでは、スティーヴ・ハケットと一緒に仕事をする時間はあまりなかったが、彼がやったことは気に入っている。

もちろん、自分のソロ・アルバムとフラッシュのサード・アルバムの両方を2週間で完成させなければならないというレーベルからのプレッシャーもあったしね。


アルバム・タイトルは皮肉にも「Two Sides Of Peter Banks」となった。

なぜなら、アルバムの片側は完成していて、片側は未完成だからだ。

サイドは明らかに未完成の側で、曲のことだ。

この曲は長いジャムだったので完成させたかったのだが、結局、1時間くらいジャムってしまった。

それをカミソリの刃で切り刻んで、このジャムの塊を編集した。

基本的にそれだけだよ。

これはちょっとうまくいったと思う。

サイドとサイドで行なったほぼすべての編集は完璧に機能したけど、他にも多くの問題点があった。

静かなギターのパートでテープヒスがひどくなったり、トラックがきちんと消去されずにノイズが残ったり、いろいろなことがあった。

でも、全体としては、アルバムはうまくいったと思う。

でも、サイドのサウンドは確かに未完成だと思うよ。


ジョン・ウェットンに関しては、またしても違うベーシストを使いたくなったんだ。

というのも、「ちょっとFlashのアルバムみたいになってきたな 」とふと思ったんだ。

アルバムにはフラッシュのレイとマイケルが参加している大曲がある。

ジョン・ウェットンはロバート・フリップを通じて知っていて、彼がベースを弾くために採用された。

実はジョン・ウェットンは何年か前にモーグル・スラッシュというバンドで演奏しているのを見たことがあるんだけど、彼は明らかにもっといいものを作る運命にあった。

僕がジョンに初めて会ったのは、1972年のある晩、家に帰ったときだった。

当時僕がロバート・フリップとシェアしていた部屋の小さなアパートに、人が出入りしていたんだ。

僕が部屋に入ると、そこにジョン・ウェットンが立っていて、僕のギブソン335を弾いていた。

最初に彼に言った言葉は、「まず、そんなものは置いておけ」だったことを覚えている。

すごく腹が立ったんだ。

それで彼はさっさと帰ってしまった。

もし彼が最初に僕に尋ねてくれたら、僕は彼にそれを演奏させただろう。

結局僕らは友達になり、最近ではジョンと僕はEL&PのトリビュートCDの「The Sheriff」のトラックで一緒にフィーチャーされている。

もっと一緒に仕事をしなかったのが残念だね。

ジョン・ウェットンと僕は、一緒に面白いことができたと思うよ。


Two Sides Of Peter Banks」のレヴューはかなり良かったよ。

というのも、先ほども言ったように、このアルバムをレコーディングしているとき、僕は完全にプレッシャーにさらされていた。

フラッシュのサード・アルバムを完成させるために、非常にストレスの多い状況で作業をしていた。

なぜなら、好きではないこと、ソロアルバムで忙しいこと、が理由だ。

とても居心地が悪かったし、自分のアルバムに時間を割かなければならないことに罪悪感を感じていた。

良い評価を見たときは、かなり驚いた。

ソロアルバムは、実はフラッシュの枚目のアルバムよりも売れたんだ。



今回もジャケットはレコード会社のアイデアだ。

でも、僕は自分の写真を前面に出したくなかった。

アルバム・ジャケットのアートワークの内側を外側にしてほしかったし、逆もまた然りだ。

僕のアルバム・ジャケットの知識では、その方法はうまくいかなかったと思う。

でもこの写真は嫌だった。

僕は「アルバムのタイトルはいらないから、ピーター・バンクスと呼んでくれ」と言ったのを覚えている。

そして彼らはどうしたかというと、タイトルを「Two Sides Of Peter Banks」に変えたんだ。

僕には「Two Sides Of Tom Jones」とか、「Two Sides Of Englebert Humperdink」とかに聞こえたけどね。

でも結局、このタイトルとジャケットはうまくいったと思う。

今振り返ってみると、このアルバムはとても気に入っている。

レコーディングの時には気づかなかった奥深さがある。


面白いことに、ヤン・アッカーマンはこのアルバムにまったく満足しなかった。

ヤンの方が僕よりずっといい演奏をしているのに、彼は簡単には喜べない。

僕はそのことに満足しているんだけど。

僕のアルバムの多くの曲で、僕はヤンに従っている。

彼は多くの曲でリードしているんだ。

アルバムが完成したとき、彼に聴かせた。

ヤンは「ひどい。こんなのでリリースできないよ。なんでこの曲を入れたんだ」

そんなことばかりだった。

彼のマネージメントが厳しかったのは知っているし、出版(版権)に関しては半々でやっていたはずだ。

でもヤンは僕のアルバムに全く乗り気でなく、嫌っていた。


年前に彼に電話したんだけど、最後に話したのは10年以上前のことだったから、ずいぶん久しぶりだった。

やっと電話がつながったんだ。

「ハロー、ピーター・バンクスだ。また一緒にアルバムを作らないか?」

と言ったら、彼はあまり乗り気じゃなかった。

彼は「どんな?」と言うので、「前にやったのと同じようなものだよ」と答えた。

するとヤンは、「ああ、でもそれはひどいよ、くだらないよ!」と言い返した。

僕は「そうかもしれないけど、90年代にはどんな音がするのか見てみようよ」と言った。

しかし、彼は全くその気にならなかった。

そして彼に「新しいCDを送るよ」と言うと、彼からも枚送られてきた。

「いつか一緒にやりましょう 」と書いてあった。

それ以来ヤン・アッカーマンとは話をしていない。


(ピーター・バンクス 2001