■イエスのアイルランドツアーと月面着陸



53年前の今日、1969年7月20日は、人類が初めて月に降り立った日です。


1969年7月にイエスが初めて行なったアイルランドツアーは、アポロ11号の月面着陸とも重なってメンバーに強烈な印象を残しました。

アメリカでウッドストック・フェスティバルが開催される前月のことです。


ツアーに同行した当時メロディ・メイカーの記者だったクリス・ウェルチさんも、その著書「クロース・トゥ・ジ・エッジ」の中で詳しく触れています。

以下はピーター・バンクスが自伝で語った当時の話です。


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イエスとボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダ・バンドとナイスがアイルランドでミニツアーをしたときのことを話そう。

週末に開催されたのだが、ツアー最終日は697月の最初の月面歩行と同じ日だったと記憶している。

アイルランドではボンゾ・ドッグ・バンドが3者の中で一番知られていたと思うけど、ナイスがヘッドライナーアクトだった。

彼らは当時「Urban Spaceman 」をヒットさせていた。

一方、イエスは当時まったく知られていないバンドだった。

それで、最初にイエスが出て、次にボンゾが出て、ボンゾは1時間完全にシュールな意味不明なコメディをやったんだ。

それからナイスのセットで、キース・エマーソンが長い激しいインプロビゼーションをやった。

多様性を求める人には非常にお勧めのライブだった。

イエスがこのツアーを行ったのは、ボンゾやナイス、そしてジェネシスのマネージメントをしていた故トニー・ストラットン・スミスのおかげだ。

彼はカリスマ・レコード・レーベルのオーナーでもあった。


トニーと僕らのマネージャーであるロイ・フリンは仲が良かった。

トニー・ストラットン・スミスはとてもいい奴で、みんなに好かれていたよ。

彼とロイの関係で、アイルランドでの小さな週末が彼らの間で手配されたんだ。

プロモーターはアイルランド人のエディ・ケネディで、彼はローリー・ギャラガーとテイストのマネージャーだった。


ベルファスト、ダブリン、コークの3都市で演奏する予定だったが、そうはならなかった。

3バンドとも同じツアーバスで、町の間を移動していた。

ホテルも同じところに泊まったので、かなり安上がりのツアーだったと思う。

ローディたちは別に移動手段を持っていた。

最初のライブはベルファストで、アルスター・ホールという素敵な古い劇場で行われた。

本当にいいライブで、3バンドともうまくいったと思う。


18日ベルファスト公演の広告

この日は他のバンドも出演したフェスだった。

結成1年後だがイエスの扱いはとても小さい。


ナイスの演奏は非常にうまくいって、スタンディング・オベーションを受けたのを覚えているよ。

ホテルでちょっとしたトラブルがあったのを覚えている。

僕たちはヨーロッパ・ホテルに泊まったのだが、チェックインしたとたん、爆弾騒ぎが起こったんだ。

それで、みんなホテルから逃げ出した。

部屋もめちゃくちゃだった。

僕はキース・エマーソンと同室で、彼が上になる二段ベッドのようなものを使っていた。


2回目のギグはダブリンで行われ、素晴らしいギグになるはずだった。

バンドはそれを楽しみにしていた。

僕はアイルランドに行くのは初めてなので、とても楽しみだった。

バスでダブリンに向かった。

3つのバンドと、メロディーメーカーのクリス・ウェルチ、写真家のバリー・ウェンツェル、それにPRやプレスの人たちなど、さまざまな人たちが一緒だった。

だから、バスの中でのちょっとしたホリデーになったんだ。

パブに寄ったり、トイレに行ったり。

マジカル・ミステリー・ツアーとまではいかないが、のんびりした感じだったね。

さあ、これからライブだ!みたいな感じではなかった。

ちょっとクレイジーな時間で、みんなでたくさんお酒を飲んだり、ちょっとドラッグを使ったりしていた。

本当に楽しい時間だったよ。


ダブリンで最も素敵なホテルの一つであるグレシャム・ホテルに泊まった。

翌朝、ヴィヴ・スタンシェル(ボンゾ・ドッグ・バンド)と朝食を食べに行ったのを覚えている。

ヴィヴはいつもピンクの中のピンクのように色白で、ジンヘアにそばかすがあった。

彼はこのようなペラペラの帽子をかぶっていて、ステージで履いていたゲルという靴を履いていた。

それぞれの靴には、小さなプラスチックの動物がいる農場の模型の庭と、アヒルが描かれた池があった。

靴のつま先の部分には、このようなアートワークが施されていた。

ホテルのロビーで、この靴を履いた彼がダイニングルームに入ろうとすると、小さな老婦人がとても怖がっていたのを覚えている。

当時はまだ長髪が珍しく、特にダブリンではそうだった。


ツアー全体は、とてもシュールなものだった。

今思えば、ほとんど夢のような時間だったね。

想像なのか、それとも本当に起こったことなのか、という感じだ。

ダブリン公演はナショナル・スタジアムで行われたのだが、そこは箱庭のようなアリーナになっていた。

ステージはなく、ボクシングのリングで、3つのバンドはそこで演奏した。

確かロープを何本か外したはずだ。

僕たちの誰も気づかなかったことのひとつに、床がとても柔らかくて弾むということがあった。

クリスと僕はマーシャルスタックに3台ずつキャビネットを置いた。

セットの勢いが増すと、ステージはどんどん跳ねていく。

ビルのドラムはすべて動き回っていた。

僕とクリスのスタックは倒れそうになり、僕たちのローディーがそれを支えていた。

マイクも倒れ続けていて、まるで冗談のようだった。

観客が大勢いたかどうかも覚えていないし、僕らがうまく演奏できたかどうかもわからない。

ただ、頭の上に何かが落ちてこないようにセットをやり遂げることだけを考えていたよ。

他の2つのバンドの演奏は見ていない。

おそらくナイスは、キースが2台のしっかりしたハモンドオルガンを持っていたので、よりうまく演奏できたのだろう。

ボンゾの演奏はどうだったかというと、僕は知らない。

でも、きっと陽気な演奏だったのだろう。見てみたかった。

とにかく、そのライブはナチス・ドイツに出てきそうな、とても重苦しい石造りの建物で行われた。

楽屋は石造りの小さな部屋で、なぜか修道院にあるような低い扉で、頭上もあまり広くない。

小さな洞窟のような、とても重苦しいものだった。


ツアー3日目はコークだった。

ダブリンでのライブの後、僕たちは何にでも挑戦する準備ができていた。

まず、この日のライブは地元のサッカー・スタジアムで行われたんだ。

そこには小さなステージが設置されていた。

その日はみんな大酒を飲んでいた。

ロード・クルーは違うかもしれないけど、バスの運転手も違うかな。

写真を撮るためにどこかに立ち寄ったのだが、そこでもすっかり道に迷ってしまった。

ライブが行われたこの場所は、何もないところだったんだ。

イエス、ナイス、ボンゾ、それにいろんなマネージャー、プレス、ロード・クルー、30人くらいがこの小さな田舎道を歩いていたのを覚えている。

なぜかはよく思い出せないけど、みんな想像できるようにヒッピーみたいな格好をしていたんだ。

で、その田舎道を歩いていたら、ものすごい臭いがしてきたんだ。

それが、コーク豚肉屠殺場だった。

クリス・ウェルチの「Close To The Edge」という本に、僕ら全員がこの場所の外に立っている写真が載っている。

つまり、その名前からしてヒステリックなのだ。

だから、Cork Pork Abattoirの光景は、僕たちをヒステリックにさせるのに十分だった。




何故かクリス・スクワイアが写っていない。




とにかく、何時間も場所を探して、田舎のとても落ち込んだ、みすぼらしい地元のサッカースタジアムにやっとたどり着いた。

ローディーはすでに到着している。

そして、ナイスとボンゾのローディ、チョーキー・ホワイトが「主電源はどこだ?」と聞いていた。

それで、管理人が私たちをスタジアムの脇の小さな小屋のようなところに連れて行ったんだ。

そこには、棚の上に小さな三つ又のプラグがあり、そこから布製の古い電気ポットのコードのようなものが出ていた。

それが、照明、音響、機材など、すべての電源になるんだ。

それで、3つのバンドはそこを出て、ローディに解決を委ねた。

その結果、彼らは「ここでは演奏できない」と言ったよ。


それで、僕ら全員は道を下って、奥の部屋に古いピアノが置いてある小さな田舎のパブに行き、酔っぱらい始めたんだ。

みんなギネスを飲んでいて、僕は初めてだった。

みんなだんだん調子が悪くなってきて、ライブをする人がいなくなる可能性が出てきた。

何時間かそこで過ごしていると、地元の人たちが入ってきて、そのうち何人かはライブに行く予定の人たちだった。

明らかに彼らは、極めてプロらしくなく、何の連絡もなくショーがキャンセルされたことをあまり良く思っていないようだった。

僕たちは後ろの部屋でキースがピアノを弾いていたんだけど、まるで酔っ払いの膝枕のように大合唱していたのを覚えているよ。

(注.ウェルチによると、キース・エマーソンはアップライトピアノで「ナットロッカー」を弾いた)


その日の夜にはコーク空港に戻り、ロンドンに戻らなければならなかった。

さて、パブには、キャンセルされたライブの観客がどんどん集まってきていた。


みんな「なんでライブをやらないんだ」と、ちょっと怒り始めていた。

「みんなここでピアノを囲んでいるのに、どうしてライブをやらないんだ?金を返せ!」と。

そんな感じで、この人たちは本当に怒り狂った暴徒と化していた。

まあ、次の瞬間、僕たちは全員バスに向かって走っていたんだけど、この暴徒は僕たちに石を投げたり、卑猥な言葉を叫んだりして追いかけてきたんだよ。「(卑猥な言葉)、(卑猥な言葉)」と彼らは叫んだ。

幸いにも全員が助かった。

どうやって助かったのかわからないが、何人かはすでにバスの中に隠れていたようだ。

イギリス人とアイルランド人の間には、とにかくいつもちょっとした緊張感が漂っている。

(69年は丁度北アイルランド紛争が始まった年だった)


イギリスで放送禁止になった「アイルランドに平和を」

ポール・マッカートニーとウイングス 1972年


僕たちがバスまで追いかけられている間、最も奇妙なことが起こった。

ちょうど僕たちがバスの中に入ったとき、誰かがラジオをつけていて、月面着陸についての解説を聞くことができたんだ。

そのラジオを聴きながら、怒り狂った暴徒が田舎道をバスを追いかけていくんだ。

まったくシュールな話だよ。


コーク空港に着き、かなり遅れてチェックインした。

ラジオではまだ、宇宙飛行士の月面着陸の話をしていた。

空港でのヴィヴ・スタンシャルは陽気で、今まで見た中で一番可笑しかったよ。

ヴィヴと彼らのドラマー、レッグス・ラリー・スミスは、このコメディ・ルーティーンをいつまでも続けていたんだ。

そして飛行機に乗ると、ヴィヴは服を全部脱ぎたがった。

彼は通路を走りながら、「俺たちはみんなヌーディストだ、自由が欲しいんだ!」と叫んでいたよ。

彼が何か脱いだかどうかはわからないけど、その時点では気にしてなかった。

ただ、家に帰りたかっただけなんだ。

フライトはかなり荒っぽく、みんな頭がおかしくなっていた。



それでようやくロンドンに戻って、フラムにあるバンドのアパートに戻ったんだけど、ちょうどその時、月面を歩く男たちをテレビで見たのを覚えてる。

すごかったね。

この日は、アイルランドで怒った暴徒に追いかけられるところから始まり、ロンドンで最初の月面着陸をみんなで見るところで終わった。

もっと思い出せればいいんだけど、とても印象的な一日だった。



■クリス・ウェルチさんの本は日本語版が出ているので翻訳はしませんが、ジョン・アンダーソンが語った言葉だけ引用しておきます。


「僕はあの夜のことをあざやかに覚えているよ。 キースがピアノを弾いて、みんな『酒を我等に』※を歌ったのは特にね。それで僕たちは飛行機に乗り込んで、月着陸のニュースを聞いたんだ。そう、いきなり飛行機が離陸して、アイルランドのシャノン国際空港に向かったんだっけ。それまでに僕たちはすっかり酔っぱらっていて、僕は三時間くらいの間笑い転げてたんだ素晴らしくてめちゃくちゃな時間だったね

 「酒を我等に」とは、「Give Peace A Chance」の替え歌のことで、ボンゾはライブでも歌って、BBCライブのCDでも聴けるらしい。