■ピーター・バンクスが語ったイエスの解雇

(2001年発行の自伝より)



少し話を戻して僕がイエスを離れるに至った経緯を話そう。


アルバム「時間と言葉」のレコーディング中、そしてその直後は少し揺らいだ状態、つまり不安定な状態だった。

それでも、まさか自分がイエスをクビになるとは思ってもみなかった。

バンド内には緊張感が漂っていた。

イエスのセカンド・アルバムのレコーディングは僕にはハッピーではなかったし、他の誰もハッピーではなかったと思う。

バンドは仕事を続けなければならず、毎週財政を支えるためにギグをし続けなければならなかった。

試してみたい新しいナンバーがたくさんあったし、進行中の作業も必要だった。

でも、3ヶ月前に見たお客さんと同じような、本当にひどい小さな場所で演奏し続けるという状況だった。

バンドは、同じ曲を何度も演奏していることに恥ずかしさを感じていた。

残念なことに、僕らには休みを取るお金がなかったんだ。


セカンドアルバムのレコーディング期間中も、セッションの合間にライブがあった。

だから、少しずつ緊張感が高まっていたのは確かだ。

演奏するライブの種類も増える一方で、不満が募っていたんだ。

ヨーロッパで小さなフェスティバルをやっても、あまり人が集まらない。

もっとひどいのは、ライブに顔を出すんだけどそのライブはキャンセルされていて、誰もそのことを僕らに教えてくれないんだ。

そういうことが何度かあって、バンドが百パーセント一緒になっていないと、ちょっとした摩擦が生じるんだ。


皮肉なことに、そのころ僕らにはかなりのファンがついていた。

その頃は「ああ、またマーキーで演奏しなきゃいけないのか 」と思っていた時期でもあった。

マーキーに僕らを観に来た人は、観光客を除けば、みんな同じ曲を演奏するのを観たことがある人ばかりだった。

リハーサルをしたり、脚色を加えたり、素材を作り替えたりと、常に工夫をしていた。

新しいアイデアがたくさんあるのに、それをリハーサルする時間がないのは大きな問題だったね。

それ以外はすべて通常通りに見えた。


クビになってから何年も思い出していることがある。

ある時、トニー・ケイと僕は洋服を買いに行っていて、リハーサルに遅刻してしまったんだ。

クリス・スクワイアに比べれば、僕は時間に正確な人間だったから、たいしたことではなかった。

でも遅刻してしまったし、その晩はかなり重要なライブがあったんだと思う。

この件に関しては、かなり大きな議論に発展した。

それから何年か経って、ジョンが言ったある言葉を印刷物で見たのだけど、その後彼と話し合ったものの、僕はまだその言葉を許せない。

彼は「ピーター・バンクスを追い出したのは、彼が音楽よりも自分の服に興味があったからだ」と言ったんだ。

本当に残酷な、子供じみたことを言ったものだ。


そんな些細なことが、バンド内の対立によって、より大きくなっていった。

みんな優秀なミュージシャンだったから、お互いに批判し合うのが普通だった。

前にも述べたように、たくさんの言い争いがあって、それが普通だった。

ライブが終わると楽屋に帰って、そのライブを分析するんだ。

時には、怒号が飛び交うこともあった。

ドアの向こう側まで聞こえてくるようなこともあったよ。

そういうものなんだ。

僕らはとてもオープンで正直だった。

いずれにせよ、僕は後方支援に回っていて、十分な貢献をしていないという印象を持たれていたようだ。

それが一般的な認識で、彼らが僕に与えた唯一の理由だった。


1970418日、故郷のハートフォードシャー州のルートン・カレッジでライブをした後、僕はイエスを解雇された。

特に悪いギグではなかったと思うし、特に素晴らしいギグでもなかったと思う。

ショーの後、楽屋でその知らせを受けたんだ。

ジョンがそれを打ち明けてくれたんだけど、クリスもそこにいた。

実はトニーとビルはその日まで知らなかったんだ。これは後で知ったんだけどね。

ジョンは僕に「君が抜けた方が、君にとってもバンドにとってもいいと思うんだ。その理由は…..

その時、僕は怒り狂って「理由なんて言うな!」と叫んでしまった。知りたくなかったんだ。

ちょっとショックだったんだと思う。

それで、小さなギグバッグに詰め込んだんだ。


最悪だったのは、僕たち全員が同じ車でライブに向かったので、常識的な行動であるはずの暴言を吐いて帰ることもできなかったことだ。

だから、僕はその場に留まり、彼らと一緒にロンドンまで戻らなければならなかった。

僕は何も言わなかったし、他のみんなもそうしなかった。

正直なところ、もし誰かが何か言っていたら、たぶんその人を殴っていたと思う。

僕にとってはまったくのショックだった。

大好きなバンドをクビになるなんて、まったく考えてもみなかったよ。

後でわかったことだが、ビルもトニーも僕がクビになるとは思っていなかった。



ビル・ブルフォードと同じアパートに住んでいたんだが、何週間も口をきかなかった。

キッチンでビルを見かけると、ちらっと視線を交わすだけ、そんな状態が数週間続いた。

廊下やキッチンで冷たい視線を交わすだけで、数週間後まで何も言わなかった。

僕がイエスを解雇されたことについて最初に話したのは、ロイ・フリンだった。

ロイはそのことにとても動揺していたし、そのことについて何も知らなかった。

そのとき、ロイは僕のすぐ後に解雇されたのだと思う。

ある意味、バンドにとって一種の粛清だったのかもしれない。

トニー・ケイとはかなり親しかったから、すぐに話をしたんだ。

残念ながら、彼はこの状況について何も教えてくれなかった。

僕は明らかに打ちのめされていて、まるで結婚が破談になったような気分だった。

とてつもなく動揺して、トラウマになりそうだった。

そして、イエスとよりを戻すチャンスはなく、もう終わったことは明らかだった。


数年後、ジョンが「誰かが去らなければならなかったし、ピーターでなければトニーだっただろう」と語っているインタビューを見た。

正直なところ、なぜ僕がイエスから追い出されたのか、いまだにわからない。

当時は知りたくもなかったし、今となってはどうでもいいことだけどね。

でも、もしかしたら、僕が全体の進行の中で後ろの方にいたせいで、僕たちがやっていることに対して、少しよそよそしくなっていたのかもしれない。

オリジナル曲の多くは僕が作曲を手伝っていたのだが、昔ほど貢献できていなかったから。

それに、僕が強く言っているように、イエスは 「最も大きな声で叫んだ者が自分の道を手に入れる 」ようなバンドだったんだ。

そのことに少し疲れていたのかもしれないし、自己主張が足りなかったのかもしれない。


でも、ギターはちゃんと弾いていたし、その点では何の問題もなかった。

自分の仕事をきちんとこなしていた。

ただ、アイディアが足りなかったというのが本当のところかもしれない。

でも、僕がアイデアを出すと、アンダーソンかスクワイアのどちらかが作曲のクレジットを取ってしまうんだ。

当時は気づいていなかったと思うが、この時期、僕はバンドで最も静かな男だったのだろう。

イエスでおとなしい奴は長続きしないのは今も昔も変わらない。

なぜ自己主張ができなかったのか、個人的に深刻な問題があったわけでもない。

トニー・コルトンとの嫌な経験や、「時間と言葉」のレコーディング・セッションのせいで、いつもより内向的になってしまったんだと思う。

それがバンドから追い出された主な理由だろう。


僕がイエスを解雇された理由はもうひとつあって、それは当時、マネージメントに問題があったことだ。

ロイ・フリンは当時としては良いマネージャーだった。

彼はバンドを存続させ、私財を投じてバンドを支えてくれた。

彼はスピークイージーでの仕事も辞めたんだ。

当時、そこはロンドンのトップ・ナイトクラブで、ヘンドリックス、ビートルズ、クラプトンなど、誰もがそこに通っていた。


ロイ・フリンとジミ・ヘンドリックス

(スピークイージー・クラブ)


ロイ・フリンはそういう人たちを個人的に知っていたんだけど、彼はその仕事をやめて、イエスのマネージメントを続けることにしたんだ。

僕が追い出される23週間前に、バンドはロイ・フリンを追い出そうとした。

僕はそれに大反対した。

そのとき僕は、ごく自然に、「ロイがいなくなったら、僕もいなくなる」とまで言ってしまったんだ。

そう言ったのをはっきり覚えている。

そのあと大げんかになって、たくさん怒鳴られた。

だから、フリンがいなくなることにすごく動揺した。

バンドがなぜ彼に不満を持っているのか、その理由は理解できた。

でも、それでも彼は彼のバンドにどっぷりはまり込んでいて、純粋にイエスを愛していた。

そして、彼は経済的に僕たちを支えてくれた。

でも、「適切なライブができない 」とか、「これをやらない 」とか「あれをやらない 」とか、いろいろと言い争うことがあったんだ。

残念なことに、その多くはロイ・フリンに押し付けられていた。

(注.気の毒なフリンは後に「5% For Nothing」と揶揄された)


だから、知らず知らずのうちに彼の味方をするようになり、「彼が行くなら、僕も行く 」と言うようになったんだ。

もしかしたら、誰かがそれを覚えていて、心に刻んでいたのかもしれない。可能性はある。

つまりロイは経験の浅いマネージャーとしてはベストを尽くしていた。でもバンドは他のマネージャーを呼ぼうとしていたんだ。

実際ロバート・スティグウッドがその候補の一人で、違う世代のマネージャーからも何人かオファーを受けた。

でも、ロバートは文字通り、イエスをビージーズのような存在にしよう思っていたんだ。馬鹿な考えだよ。


僕がいなくてもイエスは続いていく、それは間違いない。

もちろん、当時はバンドが完全に崩壊することを望んでいたし、僕の頭の中は完全に彼らに対する憎しみだった。

アルバム「時間と言葉」が完成してからリリースされるまでには、かなり間があったと思う。

僕が脱退したとき、彼らは今後のライブをすべてキャンセルし、アルバムのリリース日も延期されたと思う。

バンドは僕の後任をすぐに用意できなかった。

ロバート・フリップに依頼したようだが、明らかな理由で断られたようだ。

だから、最初の質問のひとつは「僕の代わりは誰だ?」だったと思う。

まだ誰もいないと言われたので、信じられなかった。でも、実際にそうだったんだ。


(注.ロバート・フリップによると、ピーターの後任としてイエス加入の打診を受けたのは3月26日だとしている〈「虹伝説」のブックレット〉。それが正しければピーターに通告する前だ。クリスとビルがフリップに会いに来たと言う。つまりトニー以外はピーターの解雇を事前に知っていたということになる😭)


結局、ビル・ブルフォードは僕たちがシェアしていたアパートから引っ越していった。

ビルはこの状況に対してかなり冷淡だったね、だってビルはそういう人だから。

彼はとても現実的で、とても実利的なんだ。

トニー・ケイは明らかにもっと同情的だった。

トニーもビルも、僕がバンドから解雇されたことについては何も知らないと言うので、当時は本当に信じられなかった。


ロイ・フリン


当時ロイ・フリンは大きな助けになってくれた。

僕の唯一の収入はイエスからのものだったので、ロイはかなりの期間、僕を経済的に支えてくれた。

結局、バンドから機材を全部取り返すことになったんだけどね。

その後僕は生き延びたが、とてもひどい状態だった。

僕がイエスを脱退してから何か他のことを始めるまでの1年間はちょっとした大きなロスだった。

そして僕はこのひどい即興離婚のことをなんとか補おうとしていたんだ。

だから、長い間失われた週末が好きなんだ。

何度かセッションをして、他のバンドに挑戦していたことは覚えているけれど、その頃の記憶はあまりない。

酒を飲んで忘れようとしたからだ。


(イエスを離れて1年足らずでバンクスは、Blodwyn Pigに加入した



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