年を取るにつれ頑固で偏屈になっていく、、、これは誰にでも起こりうることです。
自分もそうなるかもしれないと思っているので、身近に「こうはなりたくない」という手本があると、良い戒めになります。そういう意味では 私の父は反面教師として、実に優秀な人物です。
先日 父に運転免許返納の話をしたら、「うるさい」だの「わかっている」だの言って、一切 聞く耳を持ちませんでした。しまいには怒り出して、喧嘩になってしまいました。
これは相田みつをさんの詩です。
セトモノとセトモノと
ぶつかりっこするとすぐ壊れちゃう
どちらか柔らかければ大丈夫
柔かい心を持ちましょう
そういう私は いつもセトモノ
家庭の中、あるいは社会に出ても、お互いに「我」を出し合うと意見がぶつかってしまいます。そういう時、私達は「相手が悪い」「相手のせいだ」と非難しがちです。
しかし、どちらかが「柔らかい心」ならぶつかりません。
ぶつかった限りは、両方ともが「瀬戸物の心」だったという証拠。
「私は間違っていない」と思っている時ほど、ガチガチの「セトモノの心」になっていて、逆に、ほとぼりが冷めて「私も悪かったかな」と反省した時こそ、「柔らかい心」になっているかもしれませんね。
この「私も悪かったな」という気持ちが大事。これが『仏の眼』です。
肉眼は『他の非』が見える
仏眼は『自己の非』に目覚める (川瀬和敬師)
私達は他人の背中は見えますけれども、なかなか自分の背中は見えません。
自分の非に気づくことが出来る『仏の眼』を大切にしたいですね。
仕事や家族の面倒に追われ 忙しい日々を過ごしていると、時々、何もかも放り出して
独りになりた~い!という衝動に駆られます。誰にも気を使わず、自分のことだけをしていたら どんなに楽でしょう。
(まぁ見方を変えれば、逃げ場を求めているようなものですが)
独りになったら、人とぶつかり合うことがなくて 楽かもしれないけれど、
自分の「我」が突き出していることにも全く気づかず、自分勝手さが増すだけでしょうね。
やはり大変なことですが、文句を言う相手、私の言うことを聞かない人、時には譲ったり負けたりしなければならない相手がいるということ、、、、
「私という人間性を育てる」上では、とても大事な存在だと思います。
私も修行だと思って、頑張るしかないですね。
大勢の中ではお互いに遠慮し合い、時にはぶつかり合って、許し合いながら過ごします。
そのおかげで、我慢することや人への心配りを覚え、自然に角(カド)がとれて
人間が丸くなってきます。
やはり『皆と過ごす』『大勢の人の中に入っていく姿勢』は大切ですね。
そういう中で「仏の眼」も養われていくのでしょう。
人という文字は 二本の棒から成ります。一本では人になりません。
時には自分(我)を殺して 相手に合わせなければ、二本の棒が一つの文字を形成することは出来ないのであり、そこに『人間になるための修行のしどころ』があるのではないでしょうか。私も自戒を込めて、精進してまいります。