今年も多くの檀家さんが鬼籍に入りました。年上であれ年下であれ、地元の人であれ郊外の人であれ、同じ時代を歩んだ人の訃報は しみじみとさびしく感じます。

 

平成の初めごろ、大事MANブラザーズバンドが歌う「それが大事」という曲がはやりました。その歌詞の中に、

 

ここに あなたが居ないのが 淋しいのじゃなくて、

ここに あなたが居ないと思う事が 淋しい〉とあります。

 

恋愛の歌かと思っていましたが、よくよく考えると

さびしいのは今 あなたに会えないことではなく、もうこの世界に存在していないと かみしめること、そんな意味ではないかと思うようになりました。

 

その後の歌詞には〈高価な墓石を建てるより、安くても生きてる方がすばらしい〉という一節もありますから。

 

 

普段は離れていても、たとえ仲たがいしていても、病気で意思疎通が図れなくても

生きていると思えばこそ、安心していられますし、心の支えにもなります。

 

生きていてくれさえすれば、それでよいのです。別に会わなくてもいいですから。

 

しかし、この世からいなくなったとなると そうは言っていられません。悲しみがどっとやってきます。

そして「もうこの世からいなくなったんだ」と思い知る喪失感が、時間をおいて ひたひたと押し寄せてきます。大切な人の死別ほど辛いものはありませんね。

 

亡くなった人は本当にいなくなってしまったのでしょうか。

 

 

「死んだら終わりでない命」

 

お舅が亡くなって、早いものでもう11年。十年一昔と言いますが、当時と比べてかなり状況が変わりました。

 

私自身は「お舅は死んだもの」と割り切っていますが、

お姑や娘は事あるごとに「おじいちゃんに報告したよ」とか「おじいちゃんがよく、こんな風に言っていたね」と、今でも あたかも生きているような感覚で接しています。(特に仏壇や墓前で)

 

人は亡くなっても、全てが無になるということではないようです。

 

目には見えませんが、亡くなった人は 心の中で生き続けています。

そして、亡き人の生きざまや発した言葉が、私達生きている者の生きる指針や糧になっていくのです。

 

ですので、亡き人に会いたくなったら、手を合わせてください。

心の目で、亡き人を見つめてください。

 

死んだら終わり…といった「目に見えるものが全て」という、いのちの理解から

「亡き人といつでも出会っていける」という、いのちの理解に 心開かれていく。

 

これが仏さまのお力だと思います。

 

 

 

テレビアニメ「一休さん」でお馴染みの『一休宗純禅師』はこんな歌を詠まれました。

 

今死んだ、どこへもゆかぬ、ここにおる。

尋ねはするな、ものは言わぬぞ

 

(意味)

身体は亡くなっても、残されたあなたの心の中でちゃんと生きているんだよ。

姿形はないけれども、こうして対面しているじゃないか。だから尋ねるなよ。こちらもものは言わぬぞ。

 

大切な人との死別の後に、心から そう信じることができるか、私達が問われています。

 

 

心の目で見て、心の耳で聞いて 語りかけてみましょう。

その時、亡き人はあなたのそばにそっと寄り添い、心を通して、きっと何かを伝えてくれることでしょう。