世の中には人知を超えたもの、自分の力ではどうしようもないことが起こることがあります。
「どうして自分が こんな目に遭うのか」
事の大きさに拘らず、そんな思いにかられることが 度々あります。
今から7年前の2011年3月11日の東日本大震災は、まさに理不尽の極みでした。コツコツと真面目に生きてきた人達が一瞬にして、家や家族を奪われる、、、
その理不尽な苦しみや悲しみは、とても口に出して表現することなど出来ないでしょう。
2011年5月23日の読売新聞の「人生案内」に、東日本大震災で被災した女子大学生からの相談が掲載されました。
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あの日、祖母と一緒に逃げたが
祖母は坐りこみ「行け」と言った。
私は「大好きだよ」「ありがとう」と 何度も何度も繰り返し
祖母に別れを告げて、一人で逃げた。
そして3日後、祖母は遺体で発見された。
祖母を見殺しにした自分を、呪って生きていくしかない
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耐えきれないような理不尽さに襲われた時、人は絶望に包まれます。受け入れることなど出来るはずがない、、、生きていく気持ちさえ、薄らぐこともあるでしょう。
その投稿に対して、解説員はこう答えました。
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孫だけなら助かると判断して、孫を行かせたお婆様は その人らしい生き方をしました。
もし、お婆様が生きていたら「かけたい言葉」や「してあげたいこと」を 周りに居る人たちにしてあげて下さい。
そのようにして生き抜くことが、お婆様の心を生かす道に思えます。
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『苦しみが無くなるのではない。苦しみでなくなるのです』 荒了寛
辛いことですが、おばあさんの死に対する 苦しみが無くなるわけではありません。一生、背負って生きていくことになるでしょう。
ですが、いつの日か必ず、苦しみでなくなる時がくる、、、、長い長い年月がかかるかもしれませんが。そのことを 時薬 (ときぐすり)と言います。
女子大学生さんには この過酷な状況を少しずつ少しずつ受け入れ、おばあさんによって生かされた命を 精一杯生きていってほしいと思います。
お釈迦さまは 生きている私達が「良き生き方をすること」も、大切な供養の一つと説いておられます。おばあさんが喜んでくださるような 生き方をすることこそ、一番の供養だと思います。
補足ですが、
震災の風景には「生」と「死」の両方がありました。一方では救助され、また一方では遺体となって発見される、、、、何が生死を分けたのか、それはわかりませんが
生きているということは、常に、死と背中合わせです。
仏教では「生」と「死」を別々に分けて捉えることはしません。「生死一如」(しょうじいちにょ)といって、生死をセットで考えます。生きていることは「必ず死ぬ命」を抱えていることなのです。
