わんわんののんびり生活

わんわんののんびり生活

由緒正しい雑種の野良犬です。
人間達は、どうしていつもあくせくしているのだろう?


倶知安発の小樽行きは無事に終点に到着。
途中、下校の高校生が乗って来て満員でした。
小樽から快速エアポートで札幌へ。
札幌から旭川行きライラックに乗り継ぎます。
札幌のホテルがいっぱいで、旭川に泊まることにしただけですけど。
列車は雪が降り続ける中を時折減速しながら走ります。
札幌駅のライラックは、車両に着いた雪が寒そうで北海道に来たという実感がわいてきます。
日没が4時頃で、外はもう真っ暗。
乗客はみんな荷物が少なく、地元らしき人が中心でした。
岩見沢、滝川、深川など停車のたびに下車して行って、旭川到着時は自由席の乗車率は2割ほど。
支線には乗ってないけど、一日で函館本線を旭川まで駆け抜けました。
函館から長万部は特急と長い貨物列車が走る幹線ですが非電化でローカル色も強く、長万部から小樽はインバウンドでにぎわうローカル線、小樽から旭川は快速や特急が頻繁に走る都市間輸送の幹線で、様々な顔を楽しめました。

山線はインバウンドで混雑することから敬遠していましたが、長万部から入ると程よい乗車率でした。


長万部から函館本線で小樽を目指します。

長万部始発の倶知安行きはH100の単行です。
1970年代は函館本線と言えば急行ニセコでした。函館から札幌まで、ディーゼルカーと客車がありました。客車はC62重連が牽引していました。
国鉄の無煙化が近づくにつれSLブームが発生、急行ニセコのC62重連と
伯備線のD51三重連がTVや映画や新聞や雑誌でもてはやされました。
家が貧しい私には、どちらも遠い世界でしたが。
学生時代、はじめて北海道に行って連絡船から乗換えたのは、ディーゼルの急行ニセコでした。
連絡船は横になれるので、夜はここで寝てニセコで札幌を目指したのです。
早朝の函館駅から連絡船に接続しているのは、特急2本とニセコ。
北海道ワイド周遊券で、追加料金なしで乗れるのは、急行自由席のみ。
つつましい旅でしたが、行く先々で出会う多くの学生が同じことをやっていました。
さて、現在は長万部から小樽の間はすっかり列車本数が減り、「攻めの廃線」と言ったかどうだかわかりませんが、新幹線開業時の廃止も決まりました。
長万部駅周辺でも、新幹線工事が進んでいます。
お昼の倶知安行きは、座席があらかた埋まるくらい。
日本人が半分、乗り鉄が中心でみんな一生懸命外を見ています。
残りがインバウンドで大きなスーツケースを持って、倶知安を目指しています。中国語が中心で、ハングルや英語が聞こえてきました。
函館方面からの乗換え組と札幌方面からの乗換え組がいます。
ジャパンレールパスなら乗り放題だし、時刻表や乗換えもわかりやすいし、といったところでしょうか。
結構鉄道にも関心を持ってくれているようで、車両や駅や車窓の写真を撮っています。
函館本線は曇って羊蹄山が見えてなくても、結構景色を楽しめました。
よくこんな山の中に線路を引いたなあ、まとまった積雪がある寒冷地で保線も除雪も大変だなあという、いつもの感動です。
外は雪が降りしきり、熱郛で保線担当が運転席に同乗します。
まだ雪で線路がやっと隠れる程度なので、除雪はホームだけで、線路はやっていません。
ラッセル車も排モも車庫でお休み中みたい。
倶知安に着いてホームに降りたら、雪がさらさら。
インバウンドのみなさんがうれしそうにはしゃいでいます。
このおかげで乗客数がキープされているのを、ありがたく思います。
小樽発倶知安行きが入って来て、ここで折り返し。
乗り鉄組は、小樽行き2両編成のH100に乗り込みます。
続きます。

函館本線の起点、函館駅です。

ゼロキロ・ポスト。
転車台は、まだ現役なのか?
昔、広島方面でDLの方向転換をやっているのを見たことがあります。
がらんとした構内にDE10が1両。
青函連絡船があった頃は、貨車を積込んで大活躍でした。
札幌行きの北斗に乗ります。
長万部駅で下車。
車内は結構いっぱいでしたが、大沼公園でぱらぱら下車して、ところどころ空席ができました。
いつも通過するばかりで、はじめて下車しました。
温泉があるとは知りませんでした。
カネカツかなや食堂が休業中なので、隣のかにめし本舗かなやで弁当を買い、自由席で食べます。
暖かいところで食べられて感謝です。
続きます


今朝の函館は、雪がちらついていましたが、日が差してきました。
昨夜の雨が雪に変わって遠くの山は冠雪しています。

開館前に歩いているのは私一人でした。

函館山は、まだ雪が積もっていません。


広島への原爆投下から80年、NHKで平和記念式典の中継を見ながら黙祷しました。

被爆者の平均年齢はことし86歳を超え、初めて10万人を下回り、被爆の風化が課題です。

私が知る被爆者は、高校の教師や同級生たちのご両親です。

皆さん90歳を超え、毎年のように訃報に接します。

家に遊びに行って色々と話はしましたが、原爆について聞くことはなかったのを思い出します。

うちの親も、戦争のことは思い出したくないと多くを語らなかったので、仕方ないことなのか…

私自身で聞いたこと、見たことは限られていますが、まず子や孫に話すところからと思います。

話は変わりますが、石破首相のあいさつで引用された歌

太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり

「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の碑文です。

(私も小学生のとき碑を作るために10円寄付しました-当時国鉄初乗り20円)

式典の首相あいさつは例年コピペと言われるのですが、今回は思いを感じました。

広島に来られたとき、慰霊碑をまわって碑文を読んだのですね。

首相は、今年も核兵器禁止条約にはふれませんでした。

せめて言葉通り、非核三原則を堅持しつつ「核兵器のない世界」に向けた努力はやってもらいたいものです。