なぜ豊臣秀吉はキリスト教徒26人を処刑したのか「日本二十六聖人」の悲劇 - Yahoo! JAPAN

 

なぜ豊臣秀吉はキリスト教徒26人を処刑したのか「日本二十六聖人」の悲劇

草の実堂

画像 : 26人の処刑を描いた1862年の版画 public domain
画像:「イエズス会日本殉教図」、パウロ三木(1564年~1597年) public domain

日本二十六聖人、それは日本で初めて統一政権によって処刑された26名のキリスト教徒のことである。

1597年2月5日、彼らは長崎の西坂の丘の上にて、キリストと同様に十字架に磔にされ、槍でわき腹を貫かれ、天に召された。

信仰を理由に無残に命を奪われた彼らの遺骨や遺体の一部は、その後、聖遺物として日本を離れ、世界各地に送られたという。

彼らの処刑を命じたのは、外国人宣教師を日本から強制退去させるために「バテレン追放令」を発布した時の天下人、豊臣秀吉である。

しかし処刑された26名のうち、外国人宣教師は6名で他20名は日本人であり、その中には10代の少年たちも含まれていた。

最年少のルドビコ茨木は、まだ12歳という若さであったという。

今回は、日本のキリスト教史を象徴する悲劇となった「二十六聖人の殉教」について、紐解いていきたい。

秀吉とキリスト教

画像:イエズス会の求めに応じて製作され輸出された花鳥蒔絵螺鈿聖龕。16世紀 安土桃山時代。九州国立博物館蔵 CC BY 4.0

日本の権力者として初めてキリスト教の禁教令を出した豊臣秀吉だが、元々は彼の主君だった織田信長と同じく、外国人宣教師によるキリスト教の布教を容認する政策を採っていた。

秀吉自身はキリスト教が政治に影響をもたらす可能性を警戒していたが、南蛮貿易がもたらす莫大な利益もあり、外国人宣教師を保護し布教を黙認していたとされる。

だが1587年7月24日、秀吉は「バテレン追放令」を発布した。

この命令は、国内でのキリスト教の布教や信仰の強制を禁じ、外国人宣教師には国外退去を命じる一方、個人の自由意思による信仰までは全面的に禁じるものではなかった。

しかも秀吉は、追放令を発布した後もイエズス会宣教師を通訳や貿易の仲介役として利用しており、1590年にはアレッサンドロ・バリニャーノの再来日も認めている。

つまり秀吉はキリスト教の影響力を警戒しながらも、ポルトガルとの貿易関係まで断つつもりはなかったのである。

フィリピンへの服属要求と、サン=フェリペ号事件

画像:在フィリピンの日本人を描いた絵画 (c. 1590年) public domain

一方、秀吉は明の征服を目論んで朝鮮半島へ出兵するだけでなく、スペイン領フィリピンにも服属を迫っていた。

1591年、秀吉はフィリピン総督に対して日本への服属と朝貢を求める書状を送り、1593年にも「日本に服従しなければ征伐する」という内容の国書を送っている。

同年、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し、肥前の名護屋城で秀吉に謁見した。

バプチスタは秀吉から日本滞在と教会建設を認められ、京都に修道院を建立して布教活動を始めた。京阪地方ではフランシスコ会による布教が活発になり、信徒も増えていった。

そんな中、1596年10月19日、フィリピン・マニラからメキシコへ向かっていたスペインのガレオン船サン=フェリペ号が、台風で大きな被害を受けて土佐沖に漂着した。

船には高価な積荷が残されており、長宗我部元親のもとで没収されることになったため、スペイン人乗組員は当然強く抗議した。

この時、秀吉の奉行だった増田長盛とサン=フェリペ号航海長オランディアの間で、以下のようなやり取りがあったという逸話がある。

「スペインは、なぜこれほど広大な領土を持つことができたのか?」と長盛が尋ねると、オランディアは「まず宣教師を送り込んで布教し、その後に軍隊を送って征服するのだ」と答えたという。

この会話が実際にあったかどうかは定かではないが、サン=フェリペ号事件を経て秀吉がスペインによる侵略の可能性を警戒したことは確かであり、1596年12月8日には日本国内のキリスト教宣教師らを処罰するよう命じた。

その後、処刑対象は主として京都で公然と布教を続けていたフランシスコ会士とその関係者へと絞られ、外国人宣教師や修道士、日本人信徒ら合わせて24名が捕らえられたのである。

二十六聖人の殉教

画像 : 石田三成 public domain

1596年、当時の京都奉行だった石田三成は、秀吉から京都に住むフランシスコ会の宣教師や修道士、信徒を捕縛し処刑するよう命じられた。

三成はキリスト教徒への処罰が無制限に広がることを避けようとし、特にイエズス会については秀吉の命令に従っているとして、処罰対象から外すよう働きかけたという。

京都と大阪で捕縛された24名のキリスト教徒たちは、京都の一条戻橋で耳と鼻を削ぎ落すよう秀吉から言い渡されていたが、三成の恩情により左耳たぶを切り落とされるに留まり、市中引き回しとされた後、真冬の大阪から長崎まで護送されることになった。

処刑地に選ばれた長崎はイエズス会の「教会領」とされ、南蛮貿易の拠点として大いに栄えた地だったが、バテレン追放令が発布されてからは秀吉の直轄地となっていた。

道中でイエズス会とフランシスコ会の世話役として付き添っていた日本人信徒も捕縛され、処刑対象者は26名となる。

処刑の責任者を務めた寺沢半三郎は、長崎に到着した一行の中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れみ、ルドビコに「教えを棄てれば命を助ける」と持ち掛けた。

しかしルドビコは「この世でのつかの間の命と、天の国での永遠の命を取り替えることはできない」と断り、処刑を受け入れたという。

画像 : 26人の処刑を描いた1862年の版画 public domain

長崎の西坂の上には

十字架が26基立てられた。

 

 

西坂が処刑地に選ばれたのは、

キリストの処刑地であるゴルゴタの丘に似ている

という理由から、一行が望んだとされる。

 

1597年2月5日、26名はこれから自分たちが磔にされる

十字架を目の前にして、なんと歓喜の声を挙げたという。

彼らにとっての十字架までの道のりは、恐ろしい処刑場に向かう道ではなく、

永遠の命を得て天の国に至る道だったのだ。

 

彼らは十字架に縛り付けられた後も、讃美歌を歌い続けていた。

 

殉教した日本人信徒の筆頭格とされる修道士のパウロ三木は、

彼らの処刑を見守るために集まった4000人もの群衆に向かって

「私はキリスト教を信じたというだけで殺されるが、

命を捧げることはいとわない。

私はキリストの教えに従い、

処刑を命じた人と処刑に関わったすべての人を許したい」と訴えた。

 

やがて十字架に磔にされた26名の信徒は、キリストと同じようにわき腹を槍で刺し貫かれ、命を落とした。

後にその遺骨は長崎の宣教師によって集められ、少量ずつ聖遺物として分けられたのち、世界各地の教会やローマ教皇、スペイン国王のもとにも送られた。

そして処刑から約300年後の1862年6月8日、26名の殉教者はローマ教皇ピウス9世によって列聖され、聖人の列に加わったのである。

二十六聖人のその後

画像:大浦天主堂(長崎県長崎市)Houjyou-Minori CC BY 4.0

信徒26名の処刑は、キリスト教徒を根絶するためというより、秀吉に従わず布教を続ける者への見せしめという意味が大きかったと考えられている。

その後、江戸幕府にもキリスト教禁教の方針は引き継がれ、弾圧はさらに苛烈になり多くの宣教師や信徒が処刑された。

二十六聖人が処刑された西坂では、元和時代にもキリスト教徒55名が処刑された元和の大殉教が起きた。
同地は今は西坂公園として整備されている。

また、日本二十六聖人ゆかりの教会は各地に残されている。

 

1864年に建立された、日本における現存する最古のキリスト教建築物である

長崎の大浦天主堂もまた日本二十六聖人のために建てられた教会であり、

彼らが処刑された西坂の方角を向くように建てられているのだという。

 

参考 :
ルイス・フロイス (著) 結城了悟 (訳)『日本二十六聖人殉教記』
伊川健二「聖ペドロ・バウティスタと織豊期の日西関係」『待兼山論叢 文化動態論篇』44、2010年
Yurika Takano, “Why Did Most Jesuits Survive the Martyrdom of 1597?”2024.他
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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