思想として、「道元和尚の禅」と「瑩山禅師の禅」と異なっている事実を、
認めるか?認めないのか?の分水嶺に、立っているのである。
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「鎌倉仏教の中世」平雅行著、2025年発行、P151より
1243年、
「道元」和尚は、天台宗の著名な学僧「俊範(佐法師)」によって、
その教えが吟味され、「原始仏教」と正しく判定されて答申され、
後嵯峨天皇によって、「追却」された。
しかし、いち早く、感知して、北陸に逃げていた。
その判定は
「道元の主張は、二乗(声聞乗、縁覚乗)中の、<縁覚のような見解>であり、
<仏教に依らず、独自に開解したもの>であることは議論の余地がない」
であった。
つまり、道元和尚の「正伝の仏法」とは、
「中国禅」では、ないという事であり、
「原始仏教」「歴史上の釈尊の肉声の教え」だった。
…小乗仏教の『阿含経』『倶舎論』など
だから、
「瑩山」禅師は、「如浄」禅師を「高祖」に据えて、「その教え」を嗣法した。
同時に「道元」和尚の独自な「教え」を、完全に封印した。
他方、
主著『正法眼蔵』は、「義雲」禅師の方で、再度、編集して、「60巻本」として、用いた。
…「中国禅」を否定する「巻」を、隠した。
隠された巻は『秘密正法眼蔵』と呼ばれる。
この事実は、「義介」禅師が、一番、知っていた。
それは、
「懐鑒」禅師から、「日本達磨宗」を「嗣法」したのに、
「道元」和尚から、「嗣法」できなかった。
むしろ、しなかった。
1241年春から、1253年まで、修行したのに、「嗣書」を授からなかった。
・・・何が違うのか、「自分一人で、考えて」、それを発見できるのか?
現在ならば、いろいろな人の著作を読んで、いろいろな人の考えを知り、
複数の人の「頭脳」の助けを借りて、発見できるのに・・・
道元は、「大蔵経」「一切経」と格闘して、思想を練って、
「正伝の仏法」「原始仏教」『阿含経』&初期大乗仏教『法華経』天台智顗、…
で、とうとう、発見できた。
「道元」和尚の死後、「懐奘」禅師と「義介」の二人は、
「永平寺」を「嗣法」してきた「日本達磨宗」にして、
密教の現世利益ではなく、民衆・旦那・檀家の求めに応じて、
「義介」を中国に送り出して、「死者へ対する儀礼」の研究調査させた。
これも、「道元の教え」とは、明確に、異なった姿勢だった。
「大修行の巻」では、「道元」和尚は、禁止していた。
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要は、
ネルケ無方老師の禅は、沢木興道老師、内山興正老師の禅であり、
太祖「瑩山」禅師から、正統に「嗣法」してきた「正しい禅」である。
「如浄」禅師は、初め「教家」であって、19歳で「中国禅」へ移って来た。
だから、ご自身の基本思想は「中国天台宗」天台智顗の教学、
更に、坐禅は『摩訶止観』を基礎にしている。
他方、
「日本天台宗、達磨派」も、天台智顗の教学を基盤にして、
伝教大師「最澄」は「北宗禅」を将来し、
後の弟子は「密教」を将来し、両方を、総合する「修行」であった。
つまり、
「如浄」禅師と、太祖「瑩山」禅師とは、「宗教教義と修行思想」の両方で、
基本的に「中国天台宗」「日本天台宗」として、同じ基盤の下にあった。
だから、
「瑩山」禅師は、『如浄禅師語録』と『宝慶記』を「根本」として、
「如浄」禅師を「高祖」に据えて、「五老峰(仏塔・ストーパ・土饅頭)」を築き、
これを、定期的に祀る「行事」を制定して、「遺訓」遺言の書を残し、命じた。
その観点からは、
「このyoutubeでの議論」は、素晴らしい参究であると、考えます。
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「瑩山」禅師、その師「義介」禅師は、「道元和尚の禅」は、異なっている
のを知っていたと、考えます。
だから、
「瑩山」禅師の主著『伝光録』は、「懐奘」禅師で終っています。
つまり、
「懐奘」禅師から「義介」禅師への「嗣法」が記述されていない。
「義介」禅師は、「日本達磨宗」を「懐鑒」禅師から「嗣法」しているから、
重ねて、
「懐鑒」禅師の兄弟弟子の「懐奘」禅師からの「嗣法」は、
有り得ない、成立しない。
この「義介」禅師は、「瑩山」禅師に対して、「日本達磨宗」を「嗣法」している。
「瑩山」禅師は、「如浄」禅師を「高祖」に据えた。
「全体の構図」は、非常に、明確である。
No.16「業障、本来、空」
1227年の
浄土宗「法然」「日本達磨宗」の弾圧の天台宗「学僧」が「俊範」であり、
その同じ「俊範(佐法師)」が、
1243年の「道元」和尚の弾圧の、朝廷側の「学僧」である。
「鎌倉仏教の中世」平雅行著、2025年発行、P152より
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「道元」和尚のご質問を正確に把握する必要がある、と思いました。
「業障」「異熟障」「煩悩障」、この3つ全部が「本来空」かと、質問している。
「如浄」禅師は「長沙のいう所はついに不是なり」と
その理由づけが「いまだ三時業を明らめざるなり」である。
12巻本『正法眼蔵』「三時業の巻」で、キチンと説明している。
水野弥穂子先生の「岩波文庫」「四」のP325にて、注で解説している。
皓月の問いは「業不亡の道理によりて順後業のきたれるにむかふて」問う。
長沙のあやまりは「如何本来空に、業障是とこたふる」にあり。
「業障(五無間業)の当體をうごかさずながら空なりといふは、
すでにこれ外道の見なり。」
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なお、「道元」和尚が、1243年7月に北陸に逃げたのは、
「キレた」のではない。
後嵯峨天皇・朝廷から、「道元」和尚に、「追却」の命令が発令されたためである。
「鎌倉仏教の中世」平雅行著、2025年発行、P151より
つまり、かつての「日本達磨宗」と同じく、
朝廷の命令へ歯向かう犯罪者として追放されたのである。
だから、
「日本達磨宗」の「旧・本拠地」「波著寺」の地域へと、逃避した。
そして、弟子の育成に全力を投入するように変わった。
「日本達磨宗」が「道元」和尚を救ったのである。
大恩人なのである。
『宝慶記』の勉強会⑯、2026年5月3日