ウェイリー版「源氏物語」の翻訳者が明かす、千年前の物語が世界で絶賛された理由

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現代ビジネス

『レディ・ムラサキのティーパーティ らせん訳「源氏物語」』毬矢まりえ、森山恵

 

NHK-Eテレ「100分de名著」(2024年9月)で紹介され、「ウェイリー版・源氏物語」に注目が集まっています。今から百年前、「源氏物語」を世界で初めて英訳したアーサー・ウェイリーとはどんな人物だったのか?ヨーロッパの文壇で絶賛された『ザ・テイル・オブ・ゲンジ』はどのように生まれたのか? ウェイリーによる英訳「源氏物語」を現代日本語に生まれ変わらせた翻訳者姉妹が、世界文学としての「源氏物語」の魅力を読み解く話題書

『レディ・ムラサキのティーパーティ らせん訳「源氏物語」』。

その冒頭部分を再構成してお届けします。

あるエンペラーの宮廷でのスキャンダル

いつの時代のことでしたか、あるエンペラーの宮廷での物語でございます。

 ワードローブのレディ(更衣)、ベッドチェンバーのレディ(女御)など、

後宮にはそれはそれは数多くの女性が仕えておりました。

そのなかに一人、エンペラーのご寵愛を一身に集める女性がいました。

その人は侍女の中では低い身分でしたので、成り上がり女とさげすまれ、妬まれます。

あんな女に夢をつぶされるとは。

わたしこそと大貴婦人(グレートレディ)たちの誰もが心を燃やしていたのです。

 これは「ヴィクトリアン源氏」。

 

つまりわたしたち毬矢まりえ、森山恵姉妹による『源氏物語The Tale of Genji』〈戻し訳〉の冒頭部である。

 

源氏物語の現代語訳といえば、だれもが与謝野晶子、谷崎潤一郎に始まる錚錚たる大作家、権威ある源氏物語学者の名を次々思い浮かべるだろう。

 拙訳『源氏物語 A・ウェイリー版』(左右社)は、世界ではじめて『源氏物語』を英語全訳したアーサー・ウェイリーの、

その英語版を現代日本語に完訳した作品である。

 ウェイリー源氏の〈戻し訳〉をしよう!

 そう思いついたときの昂揚感はよく覚えている。

たしかに源氏物語の話をしていた。

けれどなんの話の流れでどちらがそんなことを思いついたのか。

正直よく思い出せない。

とにかく二人で源氏物語の話をしていて閃いたのである。

いっしょにウェイリー源氏の戻し訳をしよう、と。

 

「ヴィクトリアン源氏」と名づけ、翻訳を始めた。

寝食を忘れて。

二人熱中、没頭した。

構想を得たのが2013年ころ、実際に翻訳をはじめたのは2014年のことである。

 

 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ給ひける中に、

いとやんごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめき給ふ有りけり。

 

 だれもが知る一節。

それが「いつの時代のことでしたか、あるエンペラーの宮廷での物語でございます……」となって生まれ変わったのである。

 

 長大なる『源氏物語』の幕開け「桐壺」帖では、桐壺帝の恋、そして物語の中心となる光源氏の出生の由縁が語られる。

 

桐壺帝と桐壺更衣の恋のはじまりは、もしかしたら「小さな恋」だったかもしれない。

しかしやがては国を揺るがす大恋愛、

比翼連理の深い関係となっていくのである。

 

寵愛を受けた女性はどうなるのか。彼女はどんな運命を抱えているのか……

 けれどその前に、源氏物語の初の英語全訳という

偉業をなしたアーサー・ウェイリーとはだれか。

 

拙訳〈戻し訳〉─実はわたしたちは〈らせん訳〉と呼んでいる─

とはどんな作品か。まずはそれをお話ししたいと思います。

 

 

語学の天才、アーサー・ウェイリー

ブリティッシュ・ミュージアム photo by iStock

世界ではじめて『源氏物語』を英語全訳したアーサー・ウェイリー。彼はヴィクトリア朝末期の1889年、ロンドン郊外に生まれている。名門パブリックスクール、ラグビー校からケンブリッジ大学キングズ・カレッジに進み、古典文学では奨学金を得るなど優秀な学生であったという。けれど左目をほぼ失明。右目も危ないと宣告され学問の道は諦めざるを得なかった。しかたなく仕事に就くも飽き足りない。 そこへブリティッシュ・ミュージアム(大英博物館)版画・素描部門のポストに空きがあると紹介され、応募する。願書には、楽に読める言語としてイタリア語、オランダ語、ポルトガル語、フランス語、ドイツ語、スペイン語の六ヵ国語。流暢に話せる言語としてフランス語、ドイツ語、スペイン語をあげ、またギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、サンスクリット語を習得した、と記していた。 いわゆる語学の天才である。

 

 1913年、採用された彼は新設されたばかりの東洋版画・素描部門に配属され、日本語と中国語、それも古典語を独学で身につけることになる。後には古代ペルシャ語、モンゴル語も学び、アイヌ語も覚え、翻訳を手がけるなどしている。

 

 東アジア語習得の成果は、早くも1918年『中国の詩一七〇篇』(陶淵明、白居易などの漢詩)、

翌1919年『日本の詩歌─うた』(万葉集からの短歌・長歌、古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集などからの和歌)、

1921年『日本の能』(敦盛、卒塔婆小町、葵上、邯鄲、羽衣など)として現れる。

 

 

中国詩の翻訳については、T・S・エリオットなどのモダニズム詩とも影響を与えあったといわれる。ウェイリーは1910年代から、詩人のエズラ・パウンドやエリオットらとともに毎週月曜日に夕食会をしていたのである。

 

 ではそもそも、ウェイリーはいつどのように『源氏物語』に出会ったのだろう。

英文学者の井原眞理子は、ウェイリーの自宅の引き出しから、こんな未発表原稿を発見している。

 

 ある日のこと。ウェイリーは、ブリティッシュ・ミュージアムで

新たに購入された浮世絵を整理していたという。

そのときふと一枚の絵に目が留まる。

貴公子がひとり佇み青い海を眺めている場面。

茫漠と広がる海、生垣のあるわびしい住まい。

 

「海は少し遠かったが、夜には岸へ寄せる波の音が聞こえた」の画讃。

「須磨」帖の一場面であろう。

そのときなぜか分からないが急にこの物語を読んでみたくなった、とウェイリーは記している。

すぐさま日本から本を取り寄せると、その本を携えてスキー休暇に旅立つ。

イギリスからスイスへと渡る道中読書に熱中したウェイリー。

 

「『源氏』の中に完全に我を忘れ、(……)いったいどうやってドーヴァーで船に乗り込み、カレーで列車に乗り換え、パリの環状鉄道を周ったのか、さっぱり思い出せな」かった、と書き残している。

「旅程はすべて夢のように過ぎ去」り、気づけばスイスのモントルーに降りたっていた、と。

(以上引用、井原眞理子「ハイゲイト探訪記」) 

 

この出会いが1914年ころと推測されている。

実際に翻訳を始めたのはいつだろうか。

とにかくウェイリーは始めたのである。

しかしいくら語学の天才で、

「日本語の古文は文法も易しく語彙も少ないので、数ケ月もあれば習得できる」

(宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男 アーサー・ウェイリー伝』)と

言い放った彼であっても、満足な辞書もなく、資料もほとんどない時代である。

訳業が茨の道であったのは想像に難くない。

 ウェイリーの親族は当時を回想して、

彼の机のうえには日本語らしき言葉が記された小さな紙片が、

ジグソーパズルのように散らばっていた、と証言している。

 

 井原は、ウェイリーのこんな文章を伝えている。

 『源氏』の翻訳を始めた瞬間から、私は作者がすぐそばにいるような気がしていた。

そして、絶えず頭の中で彼女と対話をした。

「要点の半分が失われました」と、彼女は言うのだった。

 

「もしもそれ以上うまくできないのなら、すべて諦めるべきでしょう」

「そうなんだ」と、私は言うのだった。

 

「確かにこの一節は、あなたの真価を表せていない。

英語にするとどうしても見劣りしてしまう部分があるんだ。(……)

もっと上手く訳せる人を知っているなら─」

「そこがまさに困ったところなのです」と、紫式部は言うのだった。

 

「今のところ、他に心当たりがないのです。あなたが続けるしかありません」

(「ハイゲイト探訪記」『世界の源氏物語』所収) 

 

作品そのものの存在さえほぼ知られていなかった時代。

 

ひとり孤独に訳業を続けるウェイリーを慰めるのは、夢のなかの紫式部だけだったのである……。

 

ウェイリーのこの姿を想像しては、どれだけ励まされたかわからない。

わたしたちが翻訳するしかない、と。

 

 

 

 

 

ヨーロッパで絶賛された源氏物語

いまからおよそ百年前の1925年5月

ついに『源氏物語 ザ・テイル・オブ・ゲンジ』第一巻が、ジョージ・アレン・アンド・アンウィン社(ロンドン)から上梓される。平安の物語はイギリスに彗星の如く現れ、ヨーロッパの文壇に輝き出たのである。

 

 「ここにあるのは天才の作品である」(モーニング・ポスト紙)、

「文学において時として起こる奇跡」「紫式部は近代小説とも呼べるものを創りだした」(タイムズ文芸付録)、

「ヨーロッパの小説がその誕生から三百年にわたって徐々に得てきた特性のすべてが、すでにそこにあった」(ザ・ネイション誌)

など、賛辞が相次ぐ。

 

批評家モーティマーは

「人類の天才が生み出した世界の十二の名作のひとつに数えられることになろう」と書評を結んでいる。 

 

またほぼ同時にアメリカでも刊行され、7月にはニューヨーク・タイムズ・ブックレビューに

「日本の黄金時代の古典─東洋最高の長編小説(……)翻訳さる」と題した評が現れる。

 

源氏物語は「『トム・ジョーンズ』の力強さ、

『ドン・キホーテ』の炯眼、

『千夜一夜物語』の放縦」を備え、

「傑作の名にふさわしい」「天才の放つひらめき」「まぎれもない最高峰の文学作品」

など大きな驚きと賞讃を呼んだのである。

 

またウェイリーの翻訳も「それ自体が優れた文学的手腕の成果」と高い評価を受ける。

 

 二十世紀を代表するイギリスの女性作家ヴァージニア・ウルフも、

刊行からまもなくファッション誌『ヴォーグ』のイギリス版に書評を寄稿し、

「それにしても美しい世界─この物静かなレディは、良い生い立ち、洞察力、

陽気さを兼ね備えた完璧な芸術家でした」と、鮮やかな筆致で紫式部を讃えている。

 

当初は書評仕事であったとしても、ウルフは代表作『自分ひとりの部屋』でも

「レディ・ムラサキ」に言及している。

サッフォー、エミリ・ブロンテと並べ、「〔女性の書き手の〕創始者であると同時に後継者」と。

 

ウルフも深い印象を受けたのは間違いないであろう。

 

 

 

 

登場人物の名前をカタカナにした理由

さて、そのアーサー・ウェイリー訳『源氏物語The Tale of Genji』を〈戻し訳〉しようというのである。

わたしたち姉妹にははじめから「このような文体にしたい」との明確なヴィジョンがあって、それには揺るぎがなかった。

 

 まず何より、源氏物語の情感を伝えるにふさわしい、美しい現代日本語にしたかった。

緊張感と躍動感のある新鮮な文体でありつつ、美しい日本語にしたい。

なんといってもウェイリーの文体が明晰かつ流麗なのだから。

 

それは全巻二人で貫いたと思う。

 

 また英訳された『源氏物語』の異文化、異言語が透けて読み取れるよう、

ルビを活用しようと考えていた。

ルビは一瞬にして言葉の多重性を視覚化できる日本語の宝である。

 

先の引用のように、カタカナに古語のルビを振るほか、現代語にカタカナ、現代語に古語のルビなど、

幾つかのヴァリエーションを駆使した。

 

 さらに人名は、ゲンジ、プリンセス・アオイ等、カタカナ表記にした。

 

これには違和感を覚える読者もあるかもしれない……さすがに迷った。

 

たとえばゲンジの親友ともいうべき頭中将は、トウノチュウジョウとなる。

違和感があるかもしれないうえ、長い。 ――長いよね?

 カタカナ読みにくいかな? ――

でも『罪と罰』のラスコーリニコフだって、

『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフだって長いわよ ――たしかに……

ラスコーリニコフとほとんど同じ文字数ね ――

トウノチュウジョウっていう文字の塊で見れば大丈夫じゃない?

 ――そもそもドストエフスキーだって長いものね ――

世界文学と思えば大丈夫、いける そう、「世界文学」。

 

わたしたちは「世界文学」としての『源氏物語』を創造したい、創造するのだ、

と意気込んでいたので、名前のカタカナ表記についても

批判を覚悟で、ここは勇気をもって決断した。

毬矢 まりえ、森山 恵

 

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