釈尊の仏教は、「脳科学の事実」

・・・「自己」は「実体」ではない。「働き、現象、出来事」である。

・・・進化で頭脳が発達して、「自己」を「実体」と認識している。

・・・「自己保存の本能」が、人類に「文明」を創り、「宗教」を創った。

 

だから「この事実を理解できたか、できないか」であり、

「思考能力・理解能力」が、不可欠である!

 

坐禅修業での「悟りの境地」の深化などとは、全く、別物である。

 

「天動説」と「地動説」との関係と全く同じ、「世界観の相違」である。

 

だから、

世界の宗教は二分される。

「釈尊の仏教、原始仏教」か、「非仏教」か?

「自己」を「実体」である、と認識するのは「非仏教」である。

こちらの方は、普通の宗教であり、「何かを、信じている!」

 

以下は、全てが「非仏教」である。

「唯識思想」「如来蔵思想」「大乗・涅槃経=仏性思想

「中国禅」・・・老荘思想

「インド密教」「天台密教」・・・「瑩山」禅師

「現在の上座部仏教」…「輪廻転生説」を信じている!

 

そもそも、

「釈尊の仏教」は、

現在、実際に、「死苦」に憑りつかれている人に、しか、

その意味・役割はない。

つまり、

普通の人は、必要としない。無意味である。

 

家族を捨て、社会を捨て、「出家」して救われる道である。

 

日本人が必要とするものは、

「死者と死との解決」であり、

所謂「葬式仏教」=「ご先祖様」信仰が、

日本の土着信仰であり、一番、相応しいものである。

 

だから、

「道元和尚の原始仏教」は、最初から、「瑩山」禅師によって「封印」された。

そして、現在も封印されている。

現在の日本曹洞宗は、全てが「瑩山」禅師の法孫である。

つまり、

「日本天台宗、達磨派」であり「天台密教、梵我一如のお悟り」である。

 

 

〇 〇 〇

 

だから、

道元和尚の内に、「天台密教の残り滓」を探すのではなく、

密教僧・栄西禅師などの環境にも関わらず、

「原始仏教」に回帰できた、その努力を最大限、評価すべきである。

道元和尚が、一人だけで、到達できたのであるから。

 

それは、

「死苦・観無常」が原動力だったのが、原因・理由である。

他の仏教は、全てが、効果なし・無意味であったのである。

 

栄西禅師の最新の、一番本格的な高弟の

「明全」師も、道元に、「天台密教、密教禅」を指導していたのである!

 

道元は、弟子の「懐奘」も「義介」も、

昔、比叡山にも存在していた・救いがたい密教僧の人たちであった。

つまり、

「日本天台宗、達磨派」「密教禅」で修業を完成した人物たちであった。

 

 

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本人が「理解する」から、自分の束縛「自縛」から「解放され」て、救われるのである。

本人に「理解力がなかったら」ば、「解放されない」。

他人が、本人に代わることができない。

だから、他者が救う事は、原理上ありえない。

「自分だけが、救われる」のではない。

自分が、自分を、自分の思い込み「自縛」から、開放するのである。

縛っているのは、自分自身なのである。

 

釈尊は、「解放への道」を、明確に示している。

「その道を、歩むか」どうかは、「本人にしか」決めることはできない。