スポ-ツを全然やった経験がなく、劣等感から、
本の世界に逃げ込んだ。
面白くて夢中になった、そして「科学少年」に。
しかし、同時に、
自分にはオリジナリティが全くないことも知る。
「他人の考え」を学ぶとともに、
「他人の考え」同士を比較して、「良い方」を選び取ることにした。
この「科学少年」の「追っかけの対象」が
「道元」と「バーツランド・ラッセル」であったので、現在の結果となった。
世間で言われていることは「嘘ばっかし」ということを発見した。
「南京大虐殺」も自分で調べて、『東史郎日記』で納得した。
これが「リトマス試験紙」となって、「他の歴史資料」を吟味した。
「釈尊の仏教」も日本では「嘘ばっかし」、「中村元」先生が元凶。
先生は、インド思想の主流、ヒンデゥー教だから、誤った!
「道元の仏教」「瑩山禅師の仏教」へも「嘘ばっかし」。
瑩山禅師こそが、日本仏教の最大な改革者である。
道元和尚の教え「原始仏教」は、日本人には理解不可能だった。
瑩山禅師は、この事実を知っていて、完全に封印した。
「イエスの宗教」も「嘘ばっかし」。
『マルコ福音書』が、一番、「歴史上のイエス」に近い。
〇 〇 〇
「少数の人の研究」だけが、真実を述べているが、現在、埋没している状態。
それを、広めることが、二流の能力の人物の、大切な役目であると自覚している。
それに不満があるわけではない。
他人の考えを学ぶことは、楽しいことである。
これは「人類の本能だ」と考える。
学ぶと、次に解決すべきものが、見えてくる。
それの連続だった。
まあ「追っかけ」「マニアの世界」そのものである。
ただ、対象が異なっているだけである。
人がいない、競争する必要がない、そんな世界に逃げ込んだのである。
ただ、苦労して知った結論・情報を、次の世代に、バトンを渡したいだけである。
自分と同じ苦労は、時間の無駄であるから。
「多段式」ロケットのようなものである。
「今までの研究」を多く学んできた。
「その先」に行きたいだけである。
学びの先にある人生。私の言葉も「春はあけぼの」くらい後世まで残れ | TRILL【トリル】 (trilltrill.jp)
学びの先にある人生。私の言葉も「春はあけぼの」くらい後世まで残れ
人生は学びの連続で、学びの先には、新たな価値観、共感…そういった喜びがあふれていると思うのに。
◎ ◎
例えば、私は清少納言さんが好きだ。どのくらい好きかというと、長年SNSをフォローしている有名アカウント主くらい。
峯岸みなみさんのエッセイを読んで、彼女の言葉選びや価値観に勝手にファンになって、握手会にすら行っていないのに彼女の内側まで知っている気がしているけれど、たぶん清少納言さんもそれと同じくらいには内側まで知っていると思う。
清少納言さんの書いた枕草子は日本文学界でもっとも有名な随筆だろう。
こうやって書くから、なんだかかしこまってしまう。
要するにエッセイ、もっとひらたく言ってしまうとX(旧Twitter)のポストが非常に有名な方である。春にちょっと早起きして、爽やかでうららかな空気を吸うだけで反射的に「春はあけぼの…」って口をついて出てくる。
「春は明け方が一番好き」だなんて、私がTwitterでつぶやいても別にバズったりはしないだろうに、千年も昔の、今よりもバズが難しい時代にそれを成し遂げた清少納言さんはまじで有名ツイッタラー。尊敬。平安時代ってバズったツイート全部手書きでRTしてたんだよ?
◎ ◎
私は大学時代、政治学を専攻していた。学びというだけで退屈でめんどうというイメージがついているのに、「政治」なんてさらに退屈でめんどうで、場合によっては何か勧誘されたり買わされたりするイメージまでついているので、「よりによってなんで政治学…?」なんてよく聞かれたものだった。
全然特殊なものじゃないのに。
政治は、ひらたくいうと社会にある利害関係や衝突を調整することである。
社会っていうともうめんどうだから、これも言い換える。社会は「人が2人以上いること」という意味です。いや本当に。冗談でなく。
なので、すごい簡単に言うと「お兄ちゃん、私のプリン食べたでしょ!」ってやつが「社会にある利害関係や衝突」で、「お兄ちゃんに食べられないように名前書いとこ」ってやつが「政治」です。
いや本当に。まじで。私学生時代そうやって説明してた。
上の話の主語を「お兄ちゃんと私」ではなく
「国と国」にしたのが、ロシアとウクライナの戦争です。実際マジです。
で、国と国同士のもめごとでめんどうなのは
「お父さんのげんこつ」に相当するものが何もないので、
止められる人がいないんですよね。
じゃあどうする?
っていうのを、兄弟みんなで考えているのが今の状態です。本当だから。わかって。
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読んでいてわかっていただけたかと思うんですが、私は勉強が好きです。
たぶん放っておいても一生学び続けると思う。
それは、学びを「自分のこと」としてとらえる力が、
人よりもすぐれているからじゃないかと思います。
学校の勉強のいやなところは、勉強していることが
全部、自分の生活と地続きのできごとだって理解しづらい構成になっているところ。
本当は全部ぜんぶ、自分と同じように生活している人たちが、堅苦しい文章なんて書くつもりなくてTwitterくらいの感覚で文章を書いていて、うんうん唸りながら人々の利害関係を調整して、その結果歴史をつくっている。
私はそれを理解するのが上手だったんだと思います。
願わくば、私のこの言葉も「春はあけぼの」と同じくらい後世まで残ってくれたら、
学びという概念は、今よりもちょっと退屈ではなくなるのにな。
■みはしさくらのプロフィール
Instagramでは生き方のヒントを発信中。@sakura_mentalhealth