日本精神史: 自然宗教の逆襲

 (単行本) 単行本 – 2017/2/23

阿満 利麿 (著)

権力や多数者に分別なくつき従うという国民的心性の根底には何があるか。

日本人の原初的な神観念にまで立ち返り、歴史的由来を探る。

 

 

==或る書評より

本書については、WEBRONZAで佐藤美奈子氏が自然宗教がもつ課題について的確な書評をしており(2017年4月6日)、

また朝日新聞で原武史氏が天皇制の問題と絡めて要領を得た書評をしている(2017年4月16日)。

私はこれらの書評になるほどと思った一人である。

おそらく本書は、日本社会にみられる根の深い問題に取り組もうとする人々、

またそのための活動や思索を経てきた人々にとっても、非常に示唆に富む内容と思われる。

著者の立場は、

普遍的理念を損なわないという点で厳密な意味の「普遍宗教」によって

主体性の回復への道を探ろうとするものである。

そしてその道を民俗学、仏教史、宗教史、思想史などを総合して探る、射程距離の広い内容だ。

著者は浄土仏教という自らの立場を示しているが、キリスト教であれイスラームであれ、あるいは何らかの理念であれ、

およそ現世の秩序そのものを相対化し、人類に普遍的な真理に関心を寄せる人にとっても、共感できる内容と言えるだろう。

「宗教」(著者の言葉で言えば「大きな物語」)がもつ普遍性、

言い換えればこの世のあらゆる秩序を相対的なものと捉えるラディカルさに

違和感がある人もいるだろう。

しかしおそらくそれは、著者のいう

「自然宗教」に基づいて、現世の秩序を絶対化しているからではないだろうか。

そのような印象をもった。

思うに、「宗教」についての一般的な常識とは異なる大きな転換、

また「普遍宗教」のラディカルさ(根本から覆すと言う意味で)を著者が論じているのは、

単に日本の「精神史」を第三者的に評論するのが目的ではなく、

普遍的な理念に基づく社会を構築するにはどうしたらよいか、

という問題意識があるのだろう。

それは、日本だけの「特殊主義」がむやみに喧伝される今日にあって、

非常に大事な問題提起になっていると思われる。

学習会などで読みながら議論するのにもよい本だろう。

 

==或る書評より

本書は、仏教(普遍宗教)が日本において、

日本古来の自然宗教(仏教に触れることによって、奈良時代に「神道」として意識化された)に

屈服してしまう過程を中心に、日本人のメンタリティーを考察している。

自然宗教は、神社の初詣のときのように、家内安全、商売繁盛、健康、幸運などの

「現世安穏」を祈願するものであり、

「死後の自分」への配慮は「付けたし」にすぎない。

 

それに対して、

本来の普遍宗教は、死という不条理と正面から向き合い、

「死すべきもの」としての人間に魂の救済を与えるものである。

 

日本では、前者の自然宗教が圧倒的に強く、仏教のもつ普遍宗教は換骨奪胎されて、

「本地垂迹説」「神仏習合」などによって自然宗教化してしまった。

 

法然による「専修念仏」が、初めて仏教の普遍宗教性を回復したにもかかわらず、それはわずか100年足らずで、浄土真宗の教団化によって自然宗教に屈服してしまった。

そして、明治維新以後は、「国家神道」によって天皇崇拝を中心とする自然宗教化がさらに強化され、日本には普遍宗教がない、と著者は言う。

 

ここまでは優れた日本仏教論だと思う。

しかし著者はさらに進んで、日本人の「大勢順応主義」「事大主義」「長いものにまかれろ」「無責任体制」「無常観」「仕方がないんだよと、何でも水に流してしまう、アキラメ主義」など、

「主体性を喪失した日本人の生き方、メンタリティー」を、こうした自然宗教の圧倒的優位性によって説明する。

 

本書は、その連関を強く主張するために『日本精神史』という名前がついているが、

評者には、自然宗教の優位が日本人の主体性のなさをもたらすという因果関係が、

明確に提示されているようには思えない。

 

たしかに敗戦時の「一億総ザンゲ」など、

天皇制は「ムラ社会の論理」を拡大したものであり、

個人に行為の責任をとらせない「無責任体制」であることは間違いない

しかし

それが、自然宗教の優位ゆえにそうなったのだという著者の主張は十分に裏付けられているとは言えない。

 

ましてや、

普遍宗教の回復によって

日本人が主体性のある人間になることができる

という著者の主張には、

議論に飛躍があるのではないか。

 

評者の考えでは、そもそも普遍宗教のもとでは

人は神へ従属するのだからますます主体性を失うだろう。

政治における「アキラメ主義」は、国家は国民が「創る」という社会契約論的な考え方が

日本に十分に根付いていないからであり、

「ムラ社会」を脱するには、

近代市民社会を支える市民的公共性の形成こそが課題であり

普遍宗教の回復によってそれが果たせるとは思われない。

 

 

 

親鸞・普遍への道: 中世の真実

2007/4/10 阿満 利麿(著)

 
 
 
 
 『教行信証』は、概念の組み合わせが明確で、論理が一貫しているが、それが分かるには、仏教に関する知識と、「他力」を理解する必要がある。そして、論理といっても、浄土教思想の考え方の流れであり、「阿弥陀仏の物語」の中の話である。
 著者は、概念・論理を詳細に解説してくれている。『教行信証』の解説書としてお薦めできます。
 『教行信証』を読むと、「他力」が「阿弥陀仏のはたらき」であり「法身」であり、「法」であることが見えてくる。親鸞は、念仏の根拠を、第十八願から第十七願(大悲の願)に求め、「大行」だという。「大」とは「阿弥陀仏のはたらき」(摂取不捨)だということである。
 親鸞の思想には、究極的に原始仏教の釈尊の教えを真実とする視点がある、と私は思う。しかし、残念なことに、著者の立ち位置は、少し法然に戻しているようである。
 「ただ念仏せよ」と言っても、「手段」としての念仏から離れることは難しいのである。
 解説を超要約すれば、他力(正定聚)と二種探信と三願転入(顕彰隠密、三門)の話である。
 残念なのは、物語の論理、月をさす指は見えても、月は霞んだままであることである。(涅槃経の説明不足)