盧溝橋事件とサイパン陥落 日本は7月7日の悲劇を総括できているのか(Forbes JAPAN) - Yahoo!ニュース

盧溝橋事件とサイパン陥落 日本は7月7日の悲劇を総括できているのか

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Forbes JAPAN

1944年7月14日、北マリアナ諸島サイパンの戦いの後、サイパン島の日本軍陣地を進む米海兵隊。(Photo by Keystone/Hulton Archive/Getty Images)

7月7日は、日中が全面戦争に至る契機になった盧溝橋事件(1937年)が起きて87年にあたる。

当時、北平(北京)南西の盧溝橋付近で演習中だった

日本軍が中国軍による発砲を受け、

(注:すぐ近くに中国軍の陣営があり、その鼻先で夜間演習するから、

 日本軍が攻め込んできたと勘違いして、応戦してしまった)

 

日本軍兵士が行方不明(注:勝手に小便に行った)になった。

 

 

現地では停戦協定が成立したが、

日本政府は華北への派兵声明を発表

中国側も徹底抗戦の姿勢を取り、戦火が中国全土に広がった。

 

 

 防衛省防衛研究所の庄司潤一郎研究顧問によれば、盧溝橋事件を巡っては、かつて「誰が最初の一発を放ったのか」という問題に関心が集まった。「日本軍説」「大陸浪人説」「中国共産党軍説」など様々な陰謀論が飛び交ったが、

1980年代になって史料が出始め、今では「偶発説」が定説になっているという。

日本軍の夜間演習に驚いた中国第27軍兵士が発砲したというものだ。

 

庄司氏が2006年から10年まで「日中歴史共同研究」に従事した際、

 

日中歴史共同研究(概要)|外務省 (mofa.go.jp)

2006年10月の安倍総理大臣(当時)訪中の際、日中首脳会談において、日中有識者による

歴史共同研究を年内に立ち上げることで一致。

同年11月、APEC閣僚会議の際の日中外相会談において、

歴史共同研究の実施枠組みについて合意

 

 

中国側が用意したペーパーも偶発性を認めていたという。

同時に、中国側は「歴史的経緯から日本による侵略は必然的に起こった」とも主張していた。

 

 ただ、庄司氏によれば、戦線が北京から上海、南京へと拡大していくなかで、

当時の日本には、現代でウクライナ侵攻を指示する

ロシアのプーチン大統領のような計画性や強い信念は感じられなかったという。

 

 

 

 

庄司氏は「日本は当時、対ソ戦を中心戦略に据え、中国との戦争は想定していませんでした。

当初は上海まで戦線を広げる考えはありませんでしたが、

蒋介石が精鋭部隊を出して抗戦したことで、戦線が広がりました。

もちろん、日本のやったことは‘侵略’ですが、計画的な‘侵略’とまでは言えないでしょう」と語る。

 

 当時の日本は戦争指導で多くの問題点も抱えていた。庄司氏は「上海で快進撃が続いたため、目的もなく戦線を拡大しました。226事件や満州事変以降、当時の日本軍には、現場が先走って上層部に認めさせる下剋上の雰囲気が満ちていました。当時の統帥部は、戦線を拡大しないように地域を限定する制令線を指示していましたが、現地の日本軍は勝手に乗り越えて認めさせました」と語る。 当時、統帥権は独立していたため、政治が介入することはできなかった。軍内部では参謀本部第1部長(作戦担当)だった石原莞爾が戦線不拡大を唱えていたが、石原本人が満州事変を起こした中心人物だったこともあり、説得力をもって軍をまとめきれなかった。そもそも当時の軍には満州事変の記憶を持った軍人が大勢いて、下剋上を否定しない空気が流れていたという。国民も「日本軍勝利」の報道に熱狂し、提灯行列などを行い、戦果に酔った。

 

 

 

「戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しい」

なし崩しに戦線を拡大させた日本の弱点は、終戦時に悲劇となって表れた。盧溝橋事件が起きた日と同じ7月7日は、サイパンで日本軍が最後の総攻撃を実施した日だ。80年前のこの戦いで、日本軍守備隊のほとんどが戦死し、島にいた民間人の約半数が亡くなった。一部は追い詰められたサイパン島北端のマッピ岬(バンザイクリフ)から身を投げるという悲劇が起きた。 日本は1943年9月30日、御前会議で決定した「今後採るべき戦争指導の大綱」(第2回)でサイパンを含む地域を「絶対国防圏」と定めた。しかし、最前線の戦闘に集中するばかりで、サイパン島防衛の中核を担う第43師団の主力がサイパン島に到着したのは5月19日。米軍が上陸を開始する6月15日まで、すでに残り1カ月を切っていた。日本は後手後手に回り、米軍はその後もフィリピン、沖縄へと進軍し、大勢の人々が亡くなった。 天皇側近だった木戸幸一は、1945年5月初めに、沖縄を守備していた第32軍の攻勢が失敗に終わった段階で、ようやく戦争終結に向けた動きを始めた。だが、その時点に至っても、大本営は本土決戦に頭が集中し、「沖縄戦をどう終わらせるか」について意見する声もなかったという。結局、第32軍は5月22日、さらに抗戦するため、司令部があった首里から南部の喜屋武半島に撤退。混乱のなかで大勢の沖縄の人々が亡くなった。そもそも、サイパンが陥落した時点で終戦に動いていれば、フィリピンや硫黄島、沖縄などでの悲劇も回避できたかもしれない。

 

 

 

 よく、「戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しい」と言われる。ウクライナのゼレンスキー大統領は6月28日、戦争を終わらせるための「包括的な計画」を、今年中に同志国などに示す考えを明らかにした。

ただ、ウクライナが準備している反転攻勢の時期や戦果、ロシアが固執する「4州併合」の行方次第では、まだまだ終戦まで予断を許さないだろう。

 

 

 日本で今、聞こえてくる発言は、麻生太郎・自民党副総裁が発言した「(台湾有事は)日本の存立危機事態」といった程度のものだろう。岸田文雄首相は抑止力強化を繰り返し唱えているが、有事を巡るデザインについての議論はほとんど聞こえてこない。 自衛隊関係者や専門家からは「米国の目的は中国との覇権争いに勝利することだ。日本の目的は住民の生命財産を守ることにある」という声も漏れる。

 

 

米国が唱える対中抑止に協力することは必要なことだが、並行して住民保護が進まなければ意味がない。

79年前、「沖縄の人々は本土の捨て石にされた」との批判がある一方、

今度は沖縄を含む日本の人々が米国の捨て石にされたと憤る日がやってくるのかもしれない。

牧野 愛博

 

 

 

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