瑩山禅師の「葬式」仏教は、独創的!

中有で「たましい」空中で浮遊している状態の時に、

「導師」が、その死者に戒を授け仏弟子にして、

それまで犯した「罪」を消し「彼岸、仏の世界」に送り届ける。

 

そこで「釈迦牟尼仏」の説法を「直に」聞いて、

たちどころに「自分の力」で成仏に達成する。

 

だからこそ、神様「祖先<神>」と成れる、のである。

つまり、

「他者の追善」の「回向(パリナーマ)」などは、必要ないのだ!

 

浄土宗、浄土真宗などとは、全く、その「救いの根拠・思想」は異なるのである。

 

〇 〇 〇

 

浄土真宗は「他力」であって「阿弥陀如来が救って下さる」のです。

しかし、人間は、これを信じることが出来ない苦しみにある。

 

法然上人は、毎日、何万遍も「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えた。

つまり、実際は、安心できていないのである!

トイレでも入浴でも少しも休まずに!

 

親鸞聖人も、比叡山に9歳から29歳まで20年間も、

更に「堂僧」として、「常行念仏の行」を務めているのに

自分の救いを信じることができない。

 

法然が、他の宗派を全面否定するので、念仏が弾圧を受けた。

軽い罰であり、京都に戻ったが、

親鸞聖人は、法然の下には戻らなかった。

つまり、法然の信仰では、ダメだからである。

 

だから、

自分自身で、「救いの根拠」を確かめようとした。

主著『教行信証』は、信じることが出来ないから、執筆して安心しようとした。

それが不完全・未完成だったので、

関東の弟子たちを捨て去って、一人京都に上って、お経の探究を続けた。

最晩年まで、増補改訂作業に打ち込んだ!

 

それでも、ダメだった。

 

最後は、「信じること」を放棄した。

中国の老荘思想で、ようやく「安心あんじん」を得た。

それが「自然法爾・じねんほうに」である。

 

信じているかどうかに関係なく、

「自然とそのようになる」