『観音経』は『法華経』に反している。
後から追加された「品」だ。
瑩山禅師は観音信仰だった。
原『法華経』は、全体の構成を考えた上で、
一気に、短期間に、記述・著作された、仏教思想書である。
それに対して、大部後に、
原『法華経』を理解できていない者たちが、
理解できていないから、別の独立していた『観音経』を追加した。
しかし、この『観音経』のお陰で、『法華経』が爆発的に広まった。
瑩山禅師も、この『観音経』「観音信仰」の下で生きた!
白山神社の信仰、これは本地・垂迹で、
正体は「観音」であって、日本では「白山神社の神様」として現れた。
という信仰なのである。
本気で信じていた。
本当の日本人であった。
だからこそ、真剣に、本気で、所謂「葬式仏教」「日本教」を布教した。
「仏教」と「ご先祖様という神様信仰」とは、
全く関係のない「別の宗教」である。
だから、現在の日本曹洞宗の檀家は、
「ご先祖様という神様信仰」で誠実に生きる、それだけで十分である。
だから、
檀家が多くなるのに、坐禅する人は殆どいない。
この事は、日本人の精神が、健全であることの表れである。
証拠である。
だからこそ、
日本曹洞宗の僧侶たちは、
所謂「葬式仏教」を、誠実に執行する義務が存在する。
白寿まで生きた「妻の母親」の7回忌法要を、迎えるに当たって、
深く考える。
「戒名を創る作法」を、今の僧侶は、勉強していない!
その結果、へんちくりんな「戒名」を頂いた。
その根底には、所謂「葬式仏教」を軽んじているとしか思えない。
日本人にとっては所謂「葬式仏教」こそが重要なのである。
そこでは、「仏教理論・思想」とは無関係な信仰世界がある。