所謂「助動詞」は、「動詞」や「形容詞」に密着した形で、

書い+た。美しく+ない。

のように使われます。

ちょうど「動詞」や「形容詞」の語尾が変化したように見えるので、

欧州の言語の在り方を「押し付けて」「助動詞」を語尾と解釈し、

「書いた」「美しくない」全体は一語だと主張する人々もあります。

しかし、認識構造を調べてみると、「た」や「ない」の上に、

「皇帝判断」が存在して、

その表現が省略され「零記号」になっていることが判明し、

そこからも、「助動詞」は一語であり、「語尾」ではないことが、納得できる。

 

 

日本語はどういう言語か 

(講談社学術文庫 43)

1976/6/7 三浦つとむ(著)

1911年東京に生まれる。実業学校中退。以後独学で社会科学を中心に研究を進める。
専門は社会科学、言語論、芸術論、
著書は「弁証法はどういう科学か」「認識と言語の理論」「認識と芸術の理論」「マルクス主義の復原」など多数。
1989年10月27日没。
構造言語学や言語道具などの言語理論は、言語の本質をよくとらえているだろうか。
科学的な言語論の確立を意図して書かれた本書では、
客体的表現の語と主体的表現の語という独自の視点から、言語の本質が説明される
そこでは、孤立語である中国語や屈折語とよばれる英語などにくらべて、
膠着語に属する日本語が、どのような特徴や構造をもつかが、わかりやすく述べられている。
日本語を理解するためには不可欠の書といってよい。
 
==或る書評より
三浦つとむの業績は、いろいろあげることができるが、言語論だけに限定していえば、
第一に、観念的自己分裂概念を正面に据えて言語論を前進させたことであろう。
このことは、日本語のみならず、英語やドイツ語を分析するにさいにしても、
意義深いものであることは間違いない。
特に時制論にとっては決定的な意義をもつ
 
第二に、主体的表現と客観的表現とを言語分類の基礎に据えたことである。
 
英語にしろ助動詞論を考察するさいには必要不可欠である
例えば、I (do)runn.であるにしろ、doという断定の助動詞=主体的表現が現在の英語では省略されていること、
He may come hereという文では、mayは話者の主体的判断(推量)であり
He comes=客観的表現とは異なることなどが理解されるのである。
 
第三の功績は、ソシュールのラングの本性が言語規範であり、
そしてラング・パロール論が、生活過程➡︎認識➡︎表現における、
生活過程➡︎認識という過程を欠落させてしまい、逆に言語による世界構成説に陥ったこと、
つまりカントの復活にすぎないことを、看破したことである。
 
第四には、日本語が膠着語であり、英語などが屈折言であることの特徴
一貫して保持し、日本語論を展開したことである。
 
 
最後に補足しておきたい。三浦つとむは、マルクス主義を機械的に唱えたりなど決してしていないのである。
もしそのように主張されるならば、それは、本書を読まないで、自己の観念の中で勝手に作り上げものであろう。
ちなみにマルクスの理論は謙虚に読んでみることも必要あろう。
Marx Engels Gesammysusgabeも出版されているのであり、マルクスの理論が明らかになりつつあるのだから。

 

 

 

 

 

 

日本語の文法

1998/5/25 三浦つとむ(著)

 
==或る書評より
 本書は、1975年7月に刊行され40年を経過しようとしているが
現在の言語学界、国文法学界からは全く無視されている。

 構造主義言語学、スターリン言語学の誤りを正し、
時枝誠記の言語過程説を唯物弁証法に基づき発展させた科学的言語論に基づき
形式主義文法論である橋本進吉の学校文法と
その批判者による教科研文法、佐久間文法、三上文法の誤りを正し、
大槻文彦、山田孝雄らの文法論を批判的に受け継ぐ唯一の科学的文法論である。

 口語、会話文法を言語本質に即して科学的に展開したもので、
今後古典文法もこの立場から見直し、展開されねばならない。

 学校文法では品詞の定義も形式的、機能的であり、助詞、助動詞はもとより
名詞、動詞の本質的定義さえなされていない現状に対し、
助詞、助動詞の分類の誤りを正し、抽象名詞、抽象動詞の在り方と使用法、展開が見事に話者の認識を基に解明されている。

 北原保雄、小池清治、三上文法といった現在の非科学的、形式主語文法の欠陥が手に取るように懇切丁寧に説かれている。
 現在の学校文法はこの科学的文法論に置き換えられねば、単に受験勉強のための暗記文法でしかないことを明示している。

 現在、国文法は生成文法、認知言語学の多大な影響下にあるが、この形式論理による現象論的文法学論文に文化省の補助金が出され殆ど無意味な論文を量産する現状を打破するためにも本書の真の科学的文法論を遍く世界に展開し、学界の再編成を図ることが戦後レジュームの克服にとって必須である。■
 
 
 
 

認識と言語の理論 第1部 新装版

2002/6/1 三浦つとむ(著)

正しい認識論を持たない限り、言語論は無価値で、多くの害悪を流す。
第一部では認識の発展を論述、認識論と矛盾論、規範の諸形態などを取り上げる。
1967年初版の新装版。
 
==或る書評より
オットー・イェスペルセンの「文法の原理」に次のような言葉があるが、著者はそれを具体化したのであろう。「過程」という言葉がいまひとつ分らぬが、記号即意味ではなく、記号が一度観念された上に意味をもつ、ということであろうか。
「この二つの視点は、じつはそれぞれ、聞き手と話しての視点であることに気付くはずである。人と対話するとき、聞き手は一定の音と形式に出会い、それらの意味をみつけださなければならない――聞き手は、外面から内面へと(O→I)進むのである。一方、話し手は、自分が伝達しようとする一定の思想から出発する。話し手にとっては、意味は所与のものであり、それをどう表現するべきかを見つけ出さなければならない――話し手は、内面から外面へと(I→O)進むのである」
もう一つは、感性的なものは、感性とともに超感性的なものを表すという記号の二重構造に着目した点にある。
 
==或る書評より
言語が、発話者の主観的認識と、相手の主観的認識との関係において成り立っているという、
言語、認識、主客関係を体系的に検討する枠組みの提案。

言語を、文法、意味という側面で理解するだけでなく、より本質的な行動との関係において理解することができる。