ヒトラーを欺いた男(CNN.co.jp) - Yahoo!ニュース
ヒトラーを欺いた男
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1984年、英バッキンガム宮殿で写真に収まる「ガルボ」ことJ・P・ガルシア氏
(CNN) 80年前のノルマンディー上陸作戦(Dデー)で連合軍の兵士が見せた勇敢さを思い出し、
祝福する時、以下の点は言及に値する。
もしスパイの一団が連合軍のために働いていなかったなら、
さらに多くの兵士が命を落としていた公算が大きかったのだと。
Dデーが成功する可能性は、圧倒的に高いものでは全くなかった。
約5万人のナチスドイツの兵士が、連合軍の標的となる五つの海岸を防衛していた。
最終的に16万の連合軍兵士が作戦当日、
それら五つの上陸拠点を通じてフランスに入るが、
海岸に到達したまさに最初の部隊は兵力でも火力でも敵を大幅に下回っていた。
ただそれら最初のナチス守備隊を突破することは、あくまでも第一の難関に過ぎなかった。
敵は掩蔽豪(えんぺいごう)その他の防御設備からなる、いわゆる「大西洋の壁」で守られていた。
第二の難関は、ドイツ側がフランスを巡る戦いの始まりを察知する時に現れるとみられた。
当時ヒトラーの第15軍は英仏海峡の最も狭い地点に面したパドカレーに駐留。
仏北部とベルギーには戦車部隊が待機していた。
全軍を投入し、大西洋の壁を破った連合軍を殲滅(せんめつ)する準備は整っていた。
作戦成功の確率を高めるべく、連合軍の首脳は秘密の世界の住人に目を向けた。
ここで登場するのが、一風変わったスパイたちだ。
第一に、彼らの主な仕事は誤った情報をアドルフ・ヒトラーに届けることであり、
ナチスの秘密を盗むことではなかった。
そして第二に、これらのスパイの何人かは、実のところ存在していなかった。
彼らは英国の諜報(ちょうほう)部がでっち上げた全くの創造物だったのだ。
インターネットが広く使用される半世紀前にあって、
彼らはフェイスブックやインスタグラムの偽アカウントの先駆けだった。
これらのスパイは、英米の諜報からダブルクロス・ネットワークとして知られていた。
彼らはナチスに採用された工作員だったが、
第2次大戦の初期に英国側についたか、英国によって拘束されていた。
防諜は、表に出ない戦略の中でも極めて理解が困難なものだ。
最も単純な形式では、ある政府が自分たちの秘密を守るための手段として、当該の秘密を欲する外国政府の活動を検証する。
しかし第2次大戦では、防諜の攻撃的な使用が劇的に拡大した。
そこでは単に敵に秘密を知られるのを防ぐだけでなく、偽情報を仕込むことで積極的に敵を欺く手法がとられる。
そうしたいわゆる戦略的欺瞞(ぎまん)は第2次大戦中に数多く使用されたが、
最も劇的かつ重要な事例はDデーに向けた計画の中に盛り込まれていた。
英国が活用したダブルクロス・ネットワークのメンバーはドイツ政府に対して寝返り、ヒトラーの軍事諜報サービスを欺く役割を担った。
英国からの無線伝送や中立国の首都から送られた書簡を駆使し、
いつ、どこで連合軍が作戦を開始する計画なのかについて情報を流した。
作戦とは、占領下にあるフランスへ万を持して侵攻することだ。
この欺瞞作戦の中心にいたのが、
スペイン人のフアン・プホル・ガルシアだ。
コードネームの「ガルボ」は、大女優のグレタ・ガルボにちなむ。ドイツ側がガルボを信用するだけでなく、非常に有能だと見なしていることが明らかになると、英国は実際には存在しないガルボの部下を創作し始めた。
英国の指令係の助けを借り、ガルボは完全にでっち上げられたこれらの部下にまつわる偽情報を提供した。
部下たちは英国政府や英国内の米軍基地に配備されていることになっていた。
英国は米軍並びに同軍の戦略情報局と連携し、ガルボがベルリンに流す偽情報を補強した。
具体的には
存在しない英国駐留の米軍から無線信号を送った他、
「ゴースト・アーミー(幽霊の軍隊)」を作り上げる
などして空から偵察するドイツ軍を欺いた。
後者については膨張式のダミー戦車、偽の無線交信、音響効果を活用。
実在の部隊の活動から敵の注意をそらすことが狙いだった。
1944年1月から、ガルボと彼の「部下たち」はドイツ人の頭の中にDデーにまつわる偽の絵を描き始めた。
それによると作戦は同年7月、パドカレーで遂行することになっていた。
ダブルクロス・ネットワークが作り上げ、広めた偽情報によれば、
大々的な侵攻に先駆けて1度かそれ以上の陽動作戦を実施するとみられていた。
これらのより小規模な侵攻は、ドイツ軍の注意をそらす目的で行われるとされた。
この二段攻撃のシナリオをもっともらしく見せるため、
連合軍は欺瞞作戦を担当する将官らが活動。
ドイツ人に対して、大量の連合軍兵士が英国内に結集し、
ドイツに襲いかかる準備を整えていると思い込ませようとした。
そこには完全な偽物である「ゴースト・アーミー」が
本物のジョージ・パットン将軍に率いられ、
パドカレーの対岸から侵攻するという見立ても含まれていた。
この欺瞞作戦の重要な目的は、
ヒトラーを納得させて
第15軍と戦車部隊をパドカレーに引きつけ、
ノルマンディー海岸からなるべく長期間遠ざけておくことにあった。
それにより連合軍の兵士には、上陸拠点を確保するチャンスが生まれる。
ガルボの指示で、ダブルクロス・ネットワークは一斉に動いた。
本物のDデーが近づく中、連合軍の欺瞞作戦は功を奏していると言って差し支えなかった。
ヒトラーは柄にもなくベルリン駐在の日本の大使と話し込み、大使が東京に送った暗号は例によって米軍の諜報が解読、翻訳した。ヒトラーは大使に、連合軍が英仏海峡をまたぐ2度の攻撃を44年の夏に計画していると告げていた。最初の攻撃にだまされるつもりはないとも語っていた。 意外にも、連合軍の期待通りに策略は保たれた。
ナチスが全兵力をノルマンディーに振り向けることはなかった。
軍の諜報は依然として、大規模な侵攻が迫っていると信じていたからだ。
Dデーから1カ月後の7月8日になっても、ヒトラーはまだノルマンディーが陽動だったと思い込んでいた。
だからこそ、彼はノルマンディーに全軍を投入するべきとの将軍たちの要請を拒んだ。
「敵はノルマンディー上陸に成功した」。
ヒトラーは配下の司令官たちにそう書いている。
「リスクが伴うにもかかわらず、今後敵は2度目の上陸を試みるだろう。
第15軍の作戦区域に」
数十年後、やがて学位論文にまとめることになる研究の中で、
筆者は存命の英情報局保安部(MI5)の将校数人と会う幸運に恵まれた。
彼らは前出のダブルクロスのスパイたちを監督する立場にあった。
いずれも創意に満ち、規律正しい情報将校で、その才能はイングランドで捕らえたスパイたちの管理のみならず、ナチス作戦要員への報告の手法を見事に模倣することでも発揮された。
事実と虚偽とが絶妙に織り交ぜられたその報告は、いかにも信憑(しんぴょう)性の高いメッセージとして、最終的な情報の受け手が待つベルリンへと送られた。
Dデーの欺瞞作戦を考え出したロジャー・フリートウッド・ヘスケスにも会った。
策略の設計にかけては筋金入りの人物だ。
彼は「フォーティテュード・サウス」のコードネームで呼ばれたDデーの欺瞞作戦に向け、様々な能力を備えた人材を活用したという。彼はきょうだいの一人と、リバプール近郊の大きな屋敷で育った(筆者が80年代に彼を訪ねた時もまだそこに住んでいた)。近所に同年代の友達が少なかったため、彼と姉妹は架空の世界の遊び仲間を作ることで埋め合わせをした。言うなれば遊び場における謀略だ。それは彼らにとって非常に真実味があったのだが、当然本人たちの頭の中にしか存在しない設定だった。
創造力に加えて、第2次大戦の見事な防諜活動の鍵を握った要素の一つが暗号解読だ。このおかげで連合軍は自分たちの策略が機能しているのかどうかの検証が可能となり、ひとたびナチスが餌に食いついたと分かるやさらに仕掛けを強化することもできた。
米国が解読した日本による発信の内容は、ヒトラーが欧州戦線の進展をどのように評価しているかについてだったが、これ以外にも米英の暗号解読者は、ドイツの情報将校同士の会話内容を把握できていた。具体的には英国に入り込んでいるドイツのスパイの信頼性に関するやり取りだ。これは英国が主導した防諜計画「ウルトラ」の一環で、ナチスの軍高官による全ての会話が計画の対象とされていた。英ロンドン近郊の拠点ブレッチリー・パークに集まった暗号解読者たちは、コンピューター学者と性的少数者(LGBTQ)の先駆けだったアラン・チューリングらの指揮の下、日々暗号の解読に取り組んでいた。
ドイツが使用した暗号は彼らによって解読され、最重要のメッセージの内容を隠蔽(いんぺい)するという本来の目的を果たせなかった。
「ウルトラ」で得た内容から、連合軍の防諜担当者らはドイツの諜報機関が二重スパイの仕掛けたフランス侵攻にまつわる偽情報を信用していることをつかんだ。 第2次大戦中の防諜活動の大半は、Dデーが遂行された44年6月6日から30年近くの間表沙汰になることはなかったが、その戦術自体は情報将校らの間でよく知られており、冷戦期には広範に使用された。
ソ連がダブルクロス・ネットワークについて学んだ背景には、巧みに配置した自国のスパイ2人の存在があった。アンソニー・ブラントはMI5に、キム・フィルビーは英秘密情報部(MI6)の防諜部局、セクションVにそれぞれ潜入していた。 Dデーの快挙を受け、ヒトラーとの戦いでの防諜戦略を学んだ人々には極めて高いハードルが設定されるようになった。恐らく44年の時点では知り得なかったことだが、彼らは当時、防諜及び戦略的欺瞞の黄金時代を生きていた。
CNNの新シリーズ「Secrets & Spies : A Nuclear Game」で劇的に描かれているように、冷戦はより互角な、それゆえにより困難な状況を、スパイ同士の戦いにもたらすこととなった。
人間による諜報活動の評価は常に面倒で、一筋縄には行かない。仮に読者が特定のスパイを監督する作戦要員だったとしたら、そのスパイの伝える内容が真実なのかどうかを知るのがものすごく難しくなる場合もある。換言すれば、二重スパイを相手にする時、彼らの最終的な忠誠心について確信を得ることは事実上不可能なのだ。
一つの大きな例外(訳注:「ベノナ」のコードネームで呼ばれた米英の情報機関によるソ連の暗号解読プロジェクトを指す)を除き、西側諸国もソ連も敵のスパイが何を企んでいるのかを見極めるための信頼に足る方法を持たなかった。数十年にわたる米ソ対立の大半はそんな状況だった。 冷戦期に裏切り者を見つけ出すのはより困難になり、諜報機関は無益な「モグラ」狩りに一段と陥りやすくなった。裏切り者によって当然引き起こされる被害妄想にも、ますますとらわれるようになった。実際に存在した二重スパイたちは、敵対国同士が互いをどのように理解するかについて秘密裏に影響を与えることも可能だった。時には、ソ連国家保安委員会(KGB)の将校で英国のために働いたオレグ・ゴルディエフスキー氏のケースのように、世界の平和と安定に寄与することもあった。ゴルディエフスキー氏は英米両政府に対し、ソ連側が抱く核攻撃への被害妄想について時宜を得た警告を発した。 しかしながら、時として防諜が不十分なために、世界がより危険な場所になることもあった。79年からの20年間、米防諜機関職員のトップで米国内におけるソ連の標的に対処していた連邦捜査局(FBI)のロバート・ハンセンはソ連のスパイだった。中央情報局(CIA)の防諜担当職員で、ソ連での工作員の安全を管理していたオルドリッチ・エイムズ受刑者もそうだ。 米国による対ソ防諜の危機は80年代、主にハンセンとエイムズ受刑者が同時に活動していたために起きた事態だが、これにより西側はソ連を監視し、完全に把握しようとする取り組みを妨害された。当時ソ連では大規模な改革が進行中であり、最終的には国そのものが崩壊した。幸運にも、85年に政権についたミハイル・ゴルバチョフは、自身の最も重要な仕事のほとんどを公然と実行。自分が異なるタイプのリーダーだということを、自国民と同様、西側に対しても示そうとした。
Dデーから80年、冷戦終結から35年が過ぎた今、偽りの身元や偽情報はもはや防諜要員の懸念事項だけに収まる話ではなくなった。それらは我々が日々接するオンラインフィードの一部に他ならない。ある意味、我々一人一人が自分自身の欺瞞対策要員となって、事実とされるものから誤情報を見極めようとしているのが実情だ。かつて完璧に機能して人々の命を守り、世界史上最悪と目される独裁者を打ち負かした戦略は、オンライン上で当たり前に繰り広げられるようになっている。そして我々は、種々の機関やお互いに対する信頼を失いつつある。
◇ ティム・ナフタリ氏はCNNの大統領歴史家で、コロンビア大学国際公共政策大学院の上級研究員。
記事の内容は同氏個人の見解です。
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