ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで (講談社現代新書)

ハイデガーの哲学

 『存在と時間』から後期の思索まで

2023/6/22 轟孝夫(著)

「20世紀最大の哲学者」ハイデガーが生涯を賭けて問い続けた「存在への問い」とはどのような「問い」だったのか? 
変容し続ける思索の跡を丹念にたどり、その最後にたどり着いた境地に迫る。
また、近年「黒ノート事件」によってスキャンダルを巻き起こした
悪名高い「ナチス加担」がいかなる哲学的見地からなされ、
そしていかなる理由からナチス批判に転じたのかについても徹底的に解明する。
「道であって作品ではない」――
ハイデガー哲学の魅力と魔力を余すところなく捉えた力作。
 
轟 孝夫(とどろき たかお)1968年生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。
現在、防衛大学校人間文化学科教授。博士(文学)。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本思想。
著書に
『存在と共同―ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版会)
『ハイデガー「存在と時間」入門』(講談社現代新書)
『ハイデガーの超ー政治』(明石書店)がある。
 
==或る書評より
読書・哲学が好きな、40代のサラリーマンです。海外在住です。

ハイデッガーは私が最も好きな哲学者のひとりであり、これまでにも、
「存在と時間」、「芸術作品の根源」、他にも木田先生や細谷先生の関連書を読んだことがあります。
最も印象を受けたのは「存在と時間」で、いわゆる、
死を意識して、その瞬間を懸命に生きるという人生論と理解しましたが、
他の関連書を読んでいくうちに、ハイデッガーの思想はそれだけではないことに気づき、
いつかすべての思想を網羅した解説書を読みたい思っていました。
本書には、ハイデッガーの前期から後期までの思想が満遍なく解説されており、
それらは私の期待を裏切らない、真の哲学(そして真の哲学者)といえるものだと強く感じました。

私は、やはり、ハイデッガーの思想の根本には、
死を意識せざるを得ない状況における不安と、
失われつつある故郷や風土、そして神があるのだと思います。
古代においては、自然は脅威であり、恵みをもたらすものであり、そこに神々を感じることができた。
それが、近現代においては、人間がすべてを支配しつつあり、
見えるものが見えなくなってしまいつつある状況に、
哲学者として真剣に取り組んだのだと思います。
(また、あまりの真剣さが、周囲に大きな誤解を招いたともいえると思います。)

特に、第三章の中期の思索、「世界と大地の抗争」の神殿に関しての記述を読んだとき、
「ロシア的人間」(井筒俊彦)のドストエフスキーに関しての記述、
人間は神を見失うと共に自然を失い、そして愛の不能に陥った。」の意味がわかりました。

また、私には、広い意味で人間=神であるからこそ、
存在者すべてに責任を持たなければならないのだとも感じられました。
ドストエフスキーが言う、「神が存在しないならば、私が神である」も、
そういうことを言いたかったのかもしれません。

ハイデッガーの思想をナチスや反ユダヤと関連づけて、葬り去ってしまおうとするのは、あまりにも短絡であると思いますし、本書の「はじめに」ではドイツにおける評価が実際にそうであることに触れられてもいて、私は危機感すら感じました。
(もちろん、すべてを肯定するわけではありません。政権を握ったばかりのナチスがどう転ぶかわかっていなかった当時、自身の大学改革のチャンスと捉え、ナチスに関与することを「決断」したこと。ハイデッガー自身も当時を振り返って、政治と哲学を峻別できていなかったことを反省したこと。それほどの極限の状況がハイデッガーの思想を作り出したともいえるかもしれないですが、これらの事実は、私自身にも響くものであります。)

本書の内容は、私の今後の人生に間違いなく影響を与えてくれるものです。
これほどわかりやすくハイデッガーの全思想を解説していただいた轟先生にも感謝です。
 
==或る書評より
非常に難易度が高かったが面白かった。
 ハイデガーの『存在と時間』自体を読んでこの本を読むと、要点が整理出来た。ただし著者のいうように、この本が後期の思索に重点を置かれているため、その解釈のための著者の見方が反映されているものでもある。でも良い復習になったと感じる。
 ハイデガーのナチスへの加担について詳細に経緯が明らかにされている。これを読むと、人間というのは複雑で、白黒をつけて他人の事を語るものではないなとしみじみ思う。わかったように思っていて、それは単なる思い込みであったり、現象として見えているところの一部分だけで全てを判断していることになる。
 どうして世間の誤解を解かなかったのか。

”彼はその問題について沈黙していたのではなく、むしろ饒舌すぎるほど語っている。ただ世間一般が望むような仕方でかたらなかったというだけである。”

 あと存在について本質を理解するのに、日本古来の宗教観を西洋の形而上学的思惟による見方の否定というところもなるほどだった。
   ハイデガーに興味のある人は、腹をくくって読むのであれば、『存在と時間』のあらましから後期の思想まで解説として読めると思う。ハイデガーの著書を読んでいる人にはかなりおすすめ。自分の勝手な解釈が翻される。

・『存在と時間』の大まかなまとめ
・ナチズムとハイデガー
(加担とされるところとそうなってしまった経緯、世間の見方、加担者としてどう扱われたか、戦後の態度、その後の思想への現れ)
といところかな。

 自分は深い理解はしていなかったが、
『存在と時間』を読んだから、まあハイデガーはいいかと思っていたが、
彼の著書はそれとして作品や完結しているのではなく、あくまでその時点の思索であるということがわかったので、
また別のものも読んでみようと思った。
 
 
==或る書評より
ハイデガーの思想について、前期・中期・後期にバランス良く気を配り、さらには、扱いにくい論点であるナチス加担の問題にも向き合いながら、その全容をまとめた労作である。

新書であるが、本文は500ページに迫る分量がある大著である。その全編を通じて、ハイデガーが問い続けた「存在への問い」に迫っていく。ハイデガーの存在論ということでは、主著である『存在と時間』に着目して、その解題がなされるところ、本書は『存在の時間』の未完部分にも気を配りながら、ハイデガーの全生涯にわたる問いとして「存在への問い」を位置付ける。ナチスへの加担の問題も、後期の技術論も、存在に関する思索の中で、どのように位置付けられるのかが解題されるのである。
特に、『存在と時間』以降について、分かり難いと評される中期や後期とされる時期のハイデガーの思索についての解題が秀逸である。

「ナチズムとの対決」と題する第六章をはじめとして、そのハイデガー解釈に対しては、
大いに異論が沸き起こりそうな部分も多いように思うが、少なくとも、
今後ハイデガーの存在論について論じる際には、必ず一つの重要な起点となるべき内容の書である。
 
==或る書評より
まず、ハイデガーの哲学に挑戦するうえでこういった新書をいくつか読んでその思考パターンというか専門用語の使い方などについて理解しておくと途中で挫折しずらくなるので、いきなりハイデガーの哲学書に挑む前に本書のような概説書をいくつか読んでおくと多少は理解できる幅が増えると思う。

本書の特色はハイデガーの主著とされている『存在と時間』についての解説だけでなく、難解とされている後期の哲学についても言及されている点にある。そして、多くの人がハイデガーについて語るときに『存在と時間』について称揚したり批判されることが大半であり、後期の哲学を読み込むとその称賛や批判が必ずしも的を射ていないことが多いという点を指摘した概説書は少ないもしくは全く存在しないので、その意味で本書はハイデガーに興味がある人は一読する価値がある本だと思う。個人的に、ハイデガーの哲学は彼が神学を学んだ際に得た問題意識が神学をもってしては解決できず、その解決を哲学に求めたがこれも挫折、その後に彼自身の思索を再構築しようとしたが体系化することなくこの世を去ってしまい完成に至らなかった無念に満ち満ちているように感じられるが、この辺は本書をよく読んでいろいろな考察を各人がされるとよいと思う。

ただ、ハイデガーはナチスとの関連で語られることが多いので、純粋にその哲学にのみ興味があるという人は本書の他にも入門書は多くあるのでそちらも読んだほうがいいかもしれない。
以下はハイデガー哲学そのものについての議論ではなく、あまりにもナチス関与の話題が多かったことについての感想になる。

自分は門外漢の退職した研究者なのでそう深い考察や論述ができるわけではない。だが、ハイデガーがナチスに関与していたから彼の哲学をナチズムを肯定するものとしてカテゴライズし、これを排除するないしは無関心な態度をとることを社会的に半ば強制されるというアカデミックの現状に対しては異議を唱える立場が正しいと感じる。

開かれた公共の場でなんら強制や抑圧もなく立場を表明し、複数の独立した人々による議論が行われ、その結果について一定の判断が下されるという論議のプロセスなしに、ハイデガーの名を冠するものであればこれを否定するということが常習化しているというのは、これぞまさしくナチズムが行った思想統制の萌芽に他ならず、一般的に言う迫害・差別の歴史的な端緒のように感ぜられる。哲学というものはこういった先入観に捉われずに問題と向き合い自分自身で考え続けることを教える学問ではなかったか。

私自身は老後の余暇を使い、
邦訳されたハイデガーの著作をほぼすべて一読した程度の人間なので
ドイツ語のニュアンスで彼の哲学がどのように記述されているかは分からない。
確かに彼の哲学はドイツ人の哲学らしく独断的なところや性急すぎる結論を
観念的・抽象的に論じすぎているのではないかと感じることもある。
だが、少なくとも私個人は彼の哲学に親しんだからと言って
ナチズム的な価値観も差別的な価値観も抱くようにはなっていない。

そもそもナチズムという歴史的な事件をその特殊性に焦点を当て、ナチズムを批判し否定する限りにおいてわれわれは非ナチズム的である、とするような単純化された思想は、最終的にアーレントが論じた悪の凡庸さ、すなわちアイヒマンのように何も考えずに指示されるがままにスイッチを押して虐殺を行うような無思考的かつ作業合理的な人間を生み出すことになるのではないか。

ナチスという固有名詞を用いることで無意識的にわれわれの中にある迫害・差別する人間的傾向から目を背けるという思考停止の哲学が現代社会に広がり、しかもそれがアカデミズムの世界にまで浸透しており、このことを批判し疑うこともないという現状に対して私は一抹の不安を感じざるを得ない。都合の悪いものにナチズムのレッテルを張ることで公共の場からある存在や考えを排除できるという思想は中世の魔女狩りと何ら変わるものではないと私は思う。

ナチズムという特殊な事象から差別や迫害が始まった訳ではないし、反ユダヤの思想自体も遡れば聖書に書いてあることにその淵源があると言えなくもないため、もう少し迫害の歴史とタブーの思想についての研究が必要だと思われる。すなわち「ある権威による禁止命令」と「約束を破った存在を悪と定義し、これを攻撃または排除する行為」と「それがユダヤ人へと向けられた歴史的な起源」および「社会的にそれが受容された主要因」とを区別して論じるという研究態度の醸成が要るように思われる。

余談ではあるが、こういった反射的思考停止人間が大量発生した原因は、
「距離及び時間の短縮」と「情報量の指数関数的増大」の二つの要因が
インターネット・スマートフォンの普及とそれに付随する
SNSなどのレスポンシブルなコミュニケーションツールのプラットフォーム化に伴い、
人間の能力では情報選択もできず、
限られた時間内に思索するする間もなくレスポンスしなければならないという
構造を生み出してしまったことにその淵源があるような気がしてならない。

しかもこの現状は情報量の増大と時間上の制約という条件に対しての合理化された行動であり、情報社会・知識社会におけるある種の最適化の結果起きたものだという点に注意する必要がある。さらに、情報や知識を要約する産業が拡大することで短時間で試験に合格し、ライセンスの獲得のために使用された知識は忘却され使い捨てられるといったことが社会全体で常態化している。情報や知識を拡散させるのではなくテーマを絞って集中し、思考を深めていくといった考え、つまり情報や知識をいかに捨てて要約ではなく原点に返り本物の書物と知的試行錯誤を繰り返すのか、という考えも情報化社会に対するある意味での最適解の一つなのだという点が忘れ去られているように思えてならない。

情報遮断と情報選択によって思索の時間を生み出すことが現代の哲学的な課題だと思うし、私の経験上、情報量の多いクイズ型の人間よりも一冊の哲学書を丹念に読み込んだ教養型の人間のほうが知的な会話ができることが多いので、知性と情報量は相関はしても因果関係はないように思う。それこそハイデガーの哲学でも読み込んでいてくれたほうが、SNS上でコミュニケーションとは名ばかりの悪口合戦をしている人間よりもいくらか思考力が養われると思うのだが。