1つ目

 

並木浩一先生の『ヨブ記』の「ガイドブック」で、

 

神ヤハウェが、この世に、直接には、人間の歴史に、介入しない。

人間を信頼し、人間の尊厳を、汚さないように、我慢し続ける。

 

それを、

ヨブは、自分の不幸の原因を、神ヤハウェに対して、責める。

「どうして、自分が、こうなっているのか!」と。

 

神ヤハウェは、何と、それに応じる!

 

「怪獣」を持ち出す!

 

これで、

ヨブは、自分が「被創造物」であることを、考え直す!

 

他方、

イエスは、神ヤハウェが、何らかの方法で、

十字架刑から、救い出してくれると考えている。

 

だから、

「なぜ自分を、見捨てた。のか?」と叫ぶ!

それでも、

神ヤハウェは、完全に、無応答だった!

 

イエスは、最後に、

絶望して、大声で叫んで、

殺されていった。

 

イエスは、神ヤハウェが、この世に介入すると、

完全に、心底、信じていたのである。

それなのに、神ヤハウェは自分を見捨てた!

 

「古代人」であるイエスは、本当に、

「ゲヘナ・地獄」に堕ちると、恐怖したろう!

 

「ヨブ」は、自分の不幸に、納得した。

 

他方、

「イエス」は、納得できなかった。

 

マルコは、神ヤハウェが、最後まで介入しなかったことに、

驚嘆している。

 

だからこそ、

このイエスを「神の子」と、ローマ帝国の軍人「百卒長」に言わせている。

 

高柳牧師は、私のこの理解を否定なさった。

 

二つ目

 

佐藤研さんが、

現在、神学校で指導している「禅キリスト教」は、

(日本達磨宗の)瑩山禅師の「天台密教、梵我一如のお悟り」である。

 

「梵・ブラフマン・宇宙原理と、我・アートマン・自己とが、一如・一体である」

これは、

「人間が神になる」ことであり、「非キリスト教」である。

キリスト教の神学校で、彼が指導しているのは、問題である。

 

また、

「坐禅」を重視する方向は問題である。

 

現在人は「神ヤハウェ」の存在を信じることが出来なくなって、

それが、

「肉体」での「異常的な、神秘的な、体験」によって「保証してもらおう」

となっている。

 

麻原彰晃の「オウム真理教」で、「ヨガ・坐禅・修業」に没入するのも同じである。

LSDという薬品で「異常体験」を実現する・その心理と同じである。

 

「根」は同じであって、

現代人は「神ヤハウェ」を信じることができない、

にあるのだと考える。

 

この考えも、高柳牧師は、拒否なさった。

 

質問できる牧師が存在することは、幸福なことである。