エノーシュ日曜礼拝聖書研究(240616)「昔の人の言い伝え」.pdf (stars.ne.jp)

 

 

 

◎ユダヤ教の言い伝えと旧約聖書の食物規定に関する議論

 

 

 ◎食物規定の問題:

 

 ・前6世紀のバビロニア捕囚におけるアイデンティティー確保の問題。

 レビ記3、7、11章など。特に11章:浄不浄のタブー 

 

・前2世紀のシリアによるギリシャ化との闘いの問題。

 

 Ⅰマカバイ記1:62;Ⅱマカバイ記7:1 アンティオコスⅣエピファネスによる食物規定違反の強要 → 殉教

 

 

律法(文書律法:トーラー)と口伝律法(ミシュナ)の関係の問題

 

 ・「 昔 の 人 の 言 い 伝 え 」(口伝律法)

 

 ファリサイ派が形成し保持し指定した口伝律法のこと。 ユダヤ教徒の信仰と生活は基本的には旧約聖書の教え(成文律法)に依拠し、 それに合致すべきものであるが、その戒律そのものは常に明確であるとは限ら ない。また、律法を具体的な生活の場面場面に適用するにはそれぞれの場合に 応じての細かな解釈が必要となっていった。 また、とりわけディアスポラ(離散のユダヤ教徒)にとっては、生活環境(異 教徒との接触の問題など)や生活様式(異文化の浸透などによる)の変化に応 じて、古い時代に文書の形で固定化した成文律法では直接適用できない事態も 多々生じてきた。 しかし、彼らの生活は、神の言葉である聖書の定めに常に何らかの形で適合し ていなければならない。そこでこのずれを埋め、律法を生活の隅々に至るまで 実践するために、ファリサイ派や律法学者は真面目すぎるほどの努力を何世代 にもわたって続けた。彼らは生活上の実践的な必要から、また熱心な聖書の釈 義研究から、そして法的判例の積み重ねから、膨大な口伝律法を生み出した。 それはすべて聖書の解釈であるが、聖書そのものを拡大したり改変したりする ことはできないので、口伝律法を成文律法である聖書と並べて用いた。 彼らは口伝律法は聖書に基づくものであるから、成文律法と同等の権威を持ち、 モーセに与えられた神の啓示には成文律法のみでなく口伝律法も含まれている と考えた。 ファリサイ派は、こうした「昔の人の言い伝え」すなわち口伝律法を、神的権 威を持つとするゆえに整理して削減することはできず、それは自ずと時代とと もに増加する一方となるのであって、民衆の生活に対して細部にわたる絶大な 力を及ぼすことになっていったのである。 ヒレルとシャンマイは前一世紀末に活躍した著名な律法学者。シャンマイは生 粋のパレスチナ・ユダヤ人であり、律法解釈については伝統主義的立場に立つ。 これに対し、ヒレルはバビロニア生まれのユダヤ人であり、生地の学塾で律法 を学び、長じてエルサレムに到り、代表的な律法学者シュマヤ、アヴタルヨン に学ぶ。異国のユダヤ人社会で律法を日常化していく困難な環境の中で成長し たゆえであろうか、その律法に対する見解は極めて現実主義的である。両者の 律法に対する見解の相違は、死後その弟子たちに継承され、シャンマイ派、ヒ レル派となり、両者の間で個々の律法の解釈をめぐって議論されることが少な くなかった。(『ミシュナⅠ』ベラホート8の注60 p.29 教文館2003) [一例:シャンマイ派は言う。手を洗い、その後でぶどう酒を杯に注ぐ。しか しヒレル派はいう。まず杯に注ぎ、その後で手を洗う、と。シャンマイ派は 言う。彼の手を小布で拭き、それを食卓の上におく。ヒレル派は言う。椅子 の上に。シャンマイ派は言う。食事のあと部屋を掃除し、その後で手を洗う。 ヒレル派は言う。手を洗い、その後で部屋を掃除する。]

 

 

 ◎食物規定に対するイエスの革命的な態度

 

 ・イエスはすべての食物を清いと宣言した。

 ・口伝律法のみでなく、レビ記の食物規定(成文律法)を全面的に廃棄する。

 

 

 ◉イエスの態度に関するマタイとマルコの相違

 

 マタイ:言い伝え(口伝律法)を全面否定することはしない。

 成文律法に抵触しない限りで、なおも尊重されるべきと考える。 

(マタイ23:2以下参照、また5:17〜20も参照)

 

 マルコ:7:19b イエスはすべての食物は清いと宣言した。

 「こうして、すべての食物を彼は清いものとした。」(岩波版)

 「イエスはこのように、どんな食物でも清いものとされた。」(口語訳)

 

 

 

 ◎口伝律法のみでなくレビ記の食物規定(成文律法)自体を全面的に廃棄。

 

 マタイはこの言葉を採用しない。 この点で、マタイのイエスはマルコのイエスから後退している。

 

 悪徳表:マルコでは13、マタイでは7(十戒に合わせている)。

 

 成文律法を遵守すべきものと考えるマタイの思想が表れている。