ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(第3回 行為を「きちんと」やること その1 )(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(第3回 行為を「きちんと」やること その1 )

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現代ビジネス

(左)轟孝夫(右)南直哉/撮影:村田克己

 「20世紀最大の哲学者」ハイデガーと、13世紀、曹洞宗を開いた僧・道元。  時代もバックグラウンドも異なる二人ですが、じつは彼らが考えていたことには意外な親近性があったのではないか?   哲学と宗教という異なる「探求」の道が一瞬、交わったときに顕らかにされる「真理」とは?   ハイデガー哲学の研究者・轟孝夫と曹洞宗の老師・南直哉によるスリリングな対話!

 

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「具体的行為」

南直哉(撮影/村田克己)

 南直哉(以下、南):座禅するということで、臨済禅と曹洞禅はどちらも禅宗の一派みたいになっていますが、内在的な論理から言うと、別なものだと思った方がいいんじゃないかと思うんです。曹洞宗には「仏法宗」という呼び方が一時期ありましたが、むしろそう呼ぶほうが正しいのではと。  そもそも道元禅師本人が、禅宗という呼称を嫌うんです。  『正法眼蔵』に、禅宗と呼ぶなと書いてある。道元禅師は、「気合一発で何も勉強しなくてもいい」なんていうのはおかしいじゃないかと思ったんだと思うんです。あの人、当時の大蔵経を全部読んでいる。だから、「無常」が釈尊の教えの核心にあると思えば、「永遠に変わらないもの」という意味での形而上学的な実体は排斥しなきゃならないはずなんです。  そうなると、宋朝禅の「一発で何かがわかる」というのは、やっぱり受け入れられなかったんじゃないか。  だって禅師は、中国に行った初っぱなから、向こうのお坊さんのことを軒並み「こいつは駄目あいつは駄目」みたいに言っているんですよ。だから入宋以前から判断基準をすでに持っていたはずなんです。自分の思想の原型的なものは持っていて、それが実際に通用するかどうかを確かめに行っただけで、学びに行ったんじゃないんだと思う。  それで、日本に帰る土壇場になって、朝から晩まで座禅してて、眠ってる人間を、今どきならハラスメントもいいとこだけど、靴で殴ってるみたいな師家のところに行った。それは実践で腹落ちするとこまでやんなきゃ駄目だという態度に感動したからじゃないか。あるいは「作法」と言うんですか、ちゃんと髪の毛を剃るとか、顔を洗わなきゃいけないみたいなことをそのひとは細かく指導したらしい。道元もそれを引き継いでいる。となると、「仏である」ということは具体的な行為様式として現れなければ駄目なんだという確信があったと思うんです。  「行仏(ぎょうぶつ)」という言葉があるのですが、修行が現成(げんじょう)するのが仏であって、それ以外の仏はいないという考え方なのだろうと思います。そうすると、「行い」によって仏になるということを思想的に捕まえるとしたら、やっぱりどう考えても述語に注目した論理を構築していかざるを得なくなる。  したがってハイデガーの場合にも、形而上学的なものの見方では「存在」には迫れないということになれば、厳しい道を行くしかなかったんだと思います。後期は晦渋だって言われるでしょう? でも、難しいのは当たり前だと思うんです。  轟孝夫(以下、轟):たしかに「存在」を証している行いはなんなのかというと、農夫が畑耕すとか、職人がものをつくるとか、もちろん詩人が詩を詠むでもいいし、哲学者が哲学の言語を語るでもいいんですけれど、そういう場面に行きますね。  南:どれも具体的な行為でしょう? その行為の中で世界が立ち現れてくるということですよね?   轟:そうそう。  南:まったく同じです。  轟:行為をきちんと正しくやる。  南:それは道元禅師の言う「作法」だと思います。あるいはさっき言った「行法」。人間が生きているということは行為しているということだから、その行為の中に現れてくるものがあるわけで、それをちゃんと立ち上げてコミットしていかないと、おそらく何か決定的なものを取り落とすことになると思うんです。  轟:だからハイデガーも「もの」をつくるということは、表面的に捉えれば、「人」と「もの」との関わり以上でも以下でもないと思うかもしれないけれど、「もの」との関わりというのは、それを通して「世界」と関わることだから、「世界をあらしめる」ためには「もの」との関わり方が大事になると言っています。

 

 

行為しないものは身体ではない

轟孝夫(撮影/村田克己)

 

 

 南:

残念だなと思ったのは、ハイデガーには身体論をやって欲しかった。行為を具体的に担うのは身体でしょう? そしてその身体は媒体、メディアではないですか? それも最も根本的な。そのメディアとしての身体について、あのひとの論理で説明してもらったものが残っていたらよかったなと。

 

  轟:

いや、意外とあるんですよ。たとえば『存在と時間』における「語り」、すなわち「レーデ“Rede”」。彼の言う「語り」は人間が語るのでないんです。まず「世界」が語る。つまり「世界が現れる」ということ自体が「語り」なんです。

  要するに、人間は「世界内」、世界的なものだから、「語り」は必然的にある物理的な形を取らざるを得ないということです。

 

  南:

そうすると、『存在と時間』の中の「語り」の中で身体に言及しているのですね?

 

   轟:

「身体」という言葉は用いていませんが、そう読めます。

 

  南:

直接、身体という言葉が出てきて、それについて論じている部分はありますか?

 

   轟:

それもあります。この本(『ハイデガーの哲学』)では書きませんでしたが、私の研究書、『存在と共同』には書きました。ナチズムに傾倒していた時代のものには身体に関する言及があるんです。簡単に言うと、われわれの身体というものは単なる「もの」ではない。つまり物理的な物体ではない。身体も、結局は何らかの仕事であったり、運動であったりと、「存在」が基盤になっているのだと。

 

  簡単に私なりにまとめると、身体は「存在」のある種の共鳴板みたいな感じです。だから「存在」も宙に浮いているのではなく、身体を介して表現されざるを得ないということになる。

 

  南:

それは要するに、行為の言い換えだと思うんです。行為しないものは身体ではないということですから。「尽十方界真実人体(じん じっぽうかい しんじつ にんたい)」という言葉があるのですが、「尽」、すなわちことごとくが「十方界」、全宇宙とか全世界ですね、そして「真実」とあってその下に「人体」が付いている。しかしこの「人体」は、どう考えても物体ではない。あるいは物体がこっちにあって、もう一方に世界があって、それが気合一発で合体するみたいな話ではなさそうなんです。

 

  そうではなくて、行為というものがまずあって、その行為が世界と自己とを立ち上げる、という思想なんだと思います。だからその行為の担い手としての身体について「真実」と言っているのはその関係性のことなのかなと。今、ハイデガーについておっしゃった「反響」、まさにその反響を担うものとしての身体みたいな話で書いてある。

 

  轟:

これは私の表現ですが、世界が生起する時空間は宙に浮いているわけではなく、人間が何かを受け止める、すなわち行為によって担われる。だから人間が行為をするから存在が明かされることもあるけれど、逆に存在が生起するからこそ人間の行為があるとも言える。

 

  南:

どっちかに片寄っちゃ駄目ですよね。

 

  轟:

どっちかに片寄っちゃ駄目です。だから「ダーザイン“Dasein”」も、もう最初から身体なんです。そのようにして西洋哲学の理性中心主義を否定してるんです。

 

  南:

ということは、現存在は、きわめて身体性の高いものだと考えてよい?

 

   轟:

身体性の高いものです。もともとそれに対置されていたのが西洋の、理性によって実体・本質を捉えるという考え方ですから。  要するに、身体論として直接的な形では出さないで、職人の仕事などを契機として現れるものとして身体を語るというのがハイデガーの基本的なスタンスなんです。

 

  南:

そうすると、たしかに身体性に関しても、むしろすごく注目している感じがしますよね。普通の西洋哲学者よりもずっと。

 

  轟:

「存在」をだれが知り、担っているのかというと、ハイデガーは職人とか、農夫とかが担っていると言います。

絶対に知識人ではない。

 

  南:

『スッタニパータ』の、「耕すから農夫である」というのと一緒なんですね。

 

  【つづきの「第3回 行為を「きちんと」やること その2」もお楽しみください! 】  *

轟 孝夫(防衛大学校教授)/南 直哉

 

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