意外と知られていない…『存在と時間』が「時間」をちゃんと論じていない理由(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

 

意外と知られていない…『存在と時間』が「時間」をちゃんと論じていない理由

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現代ビジネス

 

 20世紀最大の哲学者のひとり、マルティン・ハイデガー。  彼が90年前に出版した『存在と時間』は、ハンナ・アーレントら哲学者はじめ、フランスではサルトル、フーコー、ドゥルーズなど「ポストモダン主義」の思想家たちに多大な影響を与えた。 【前半】「「わかりやすく書けないのか」と先輩や編集者から苦言を受けたハイデガー  また彼の説く「本来性」は日本人の「道」の感覚に通じることから、日本でも大変人気の高い哲学書として読み継がれている。  しかし同書は「難解の書」としての魅力も放っているため、チャレンジしてみたものの意味がわからず途中で断念した方も多いのではないだろうか? なかには「哲学」そのもののイメージに尻込みし、手を伸ばさずにいる人もいるだろう。  轟孝夫氏の著書『ハイデガー『存在と時間』入門』は「ハイデガーが本当に言いたかったこと」を10年かけて解明した一冊だ。  ハイデガーの説く「存在」とは一体なんなのか?   今回は、特別に「入門の入門」として、誰も解けなかったその「真理」を問答形式でわかりやすく、轟氏に寄稿していただいた。 前半 「結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか」では、ハイデガーの文章が難解である理由、ハイデガーはなぜ「人間」を「元存在」と呼ぶのか、また、じつは研究者もよく理解できていない「本来性」とは何か、について問答が繰り広げられた。  後半ではいよいよ、『存在と時間』に書かれた「存在」と「時間」について迫る。

お茶碗がお茶碗として存在するために

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 Q: で、結局のところ、ハイデガーの言う「存在」とは、何だったのですか?   A: 「何かがある」というとき、普通その意味は、その何かが目の前に「見えるものとして」「ある」ことだと思いますよね。でもハイデガーは、そうではないと言うんです。  Q: たしかに普通はそう考えると思うのですが、それが違うとなると、どうなるのですか?   A: 例を使って説明しましょう。たとえば、1個のお茶碗について、それがお茶碗であると言えるのは、私がそれをお茶碗として使用するからです。仮にそれを誰かに投げつけるために使うとすれば、それは茶碗として存在しては、いない。単にお茶碗の形をしたものが目の前にあるだけです。  お茶碗がお茶碗として存在するためには、お茶碗を適切に使用することによってそれを「あらしめる」ことが必要だ、そうハイデガーは言うわけです。  Q: あるものがそのものとして「ある」とは、そのものとわれわれとの関係性のうちでのみ成り立つ事態である、という感じでしょうか?   A: まあそんな感じです。何かが「ある」とは、それが単に目の前にあることではないんです。そうではなく、そのものにふさわしい態度を取ることによって、そのものが初めてそのものとして「ある」ことができるようになる。  つまり私がお茶碗を適切に使用することによって、初めてお茶碗はお茶碗として「存在」することになるわけです。お茶碗をお茶碗として使うことはとくに珍しいことではありません。しかしお茶碗を本当に「あらしめよう」と思えば、究極的には茶道になるかも知れない。つまり何かをそのものとして「あらしめる」には、われわれの側にもしかるべき修練が必要になるのです。  Q: ものの「存在」は、ただそれをボーッと見ているだけでは理解できないということですね。  A: そういうことです。さっき本来性について説明したところで、われわれは「自分だけの現実」という重荷を負わされていると言いました。具体的に言うと、われわれは自分とは異なる「存在」を負わされていて、それに対してしかるべき関係に入ることをつねに求められている。  本来性とはまさにそうした「負い目」を直視すること、他なるものの「存在」に対してしかるべき仕方で応答する「覚悟」を意味しているのです。

 

 

 

仏教の教えに似ている

 Q: 生きることがそれ自身、さまざまな他なるものの「存在」に対してよりよく応答すること、つまりそれを「あらしめる」ための終わりなき努力なのだというところは、日本人の「道」の考え方にも通じるところがありそうです。  A: その点は以前、このサイトに掲載された拙稿(「なぜ日本人はハイデガーをこんなにも「偏愛」するのか」)でも指摘しておきました。  Q: ハイデガーの非本来性と本来性の議論が、煩悩によって支配された「無明」の生と、それを脱した「悟り」という仏教の教えに似ている。そうした点も、日本人のハイデガー愛好の理由になっているのではないかという話でした。  A: ええ、さっきもお話ししたように、キリスト教の教えから「神」や「来世」といった超越的な要素を徹底してそぎ落としていった結果、もともとそうした超越的存在を認めない仏教に、構造的に近くなったのではないでしょうか。  Q: 「本来性」だ、「存在」だと言っても、突飛なこと、あるいは凡人には理解しがたい深遠な真理を論じているわけではなかったんですね。ハイデガーも日常に即した、われわれにも理解できそうな問題を取り上げていたんだということは、なんとなくわかった気がします。  でもそういえば、『存在と時間』というタイトルなのに「時間」についてはこれまでまったく話題になりませんでした…。

『存在と時間』は「時間」を論じることなく途絶

ハイデガーはいい加減な人だった?(GettyImages)

 A:

 実は『存在と時間』では、「時間」についてはちゃんと論じられていないんです。『存在と時間』は未完の著作で、「時間」を正面から取り上げることなく途絶しました。

 

 

  Q:

 ハイデガーは結構いい加減な人で、

『存在と時間』を刊行する数年前から論文を書く書くと言いながら、

全然書けなくて、

やっと本を出したらそれも尻切れトンボになってしまったのでした。

 

  A:

 いい加減というか、

大学でのポストを得るために

何が何でも業績を出さなければならないという外的圧力と、

最初にもお話しした、

自分の問題にしている事柄をできるだけ厳密に語りたい

ということの間でつねに葛藤があったのでしょう。

 

 

  『存在と時間』も最初の200ページ分を印刷した後、残りの原稿を書き換えたりしています。それで最初は一巻本のはずだったものが、分量が増えて上下二巻に分けることにした。しかも下巻は未完に終わって、「時間」についてはきちんと論じられずじまいになったんです。

 

  ハイデガーの名誉のために言いますが、もちろん時間についての考察も様々な講義の中で行われています。

 

そうした講義を参照すると、

「時間」についてもさっきの「存在」と同様に、

単に「今、目の前にある」、すなわち

単に「現在」だけに関わるのではなく、

「将来」へと「過去」へとの拡がりをもった現象である

ことを示そうとしていたことがわかります。

 

 

 

 

 

 

一般人が「哲学」を学ぶのは趣味にすぎないのか

 Q: では最後に、これは身もふたもない質問ですが、『存在と時間』を読む、あるいはもっと一般的に言って哲学を学ぶことは、われわれのような一般人にとって何か意味があるのでしょうか? それともそれは単なる知的好奇心、言ってみれば「趣味」のようなものに過ぎないのか。  A: われわれは生きている以上、他なるものの「存在」を負わされ、それに対応するように呼びかけられていると言いました。このような生の根本的な現実は、われわれが「趣味」のように自由に選べるものではありません。それこそ身もふたもない話ですが、われわれにはそのことを真正面から引き受けるか、ないしはそこから逃げるかという二つの選択肢しかないわけです。  前者の選択をした人にとっては、生きること自体が物事の真の「存在」を問い続ける営みそのものになるでしょう。それは基本的には、哲学書を読む、読まないとは関係のないことです。ですが、そうした人が『存在と時間』のうちに、自分と同じ問題意識が示されていることを見出し、それを読むことでによって自身の問題をよりはっきりと認識できるようになる、ということはあるかもしれない。  先ほど、生きることは孤独なことだと言いました。哲学書は、われわれがそのような孤独な生を背負っていくにあたってのよき同伴者、あるいは対話相手になってくれるのではないでしょうか。  *

轟 孝夫(防衛大学校教授)

 

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