木田元の最終講義 反哲学としての哲学 (角川ソフィア文庫)

木田元の最終講義

 反哲学としての哲学

 (角川ソフィア文庫 373)

2008/5/24 木田元(著)

ハイデガー哲学の核心は「反哲学の哲学」にある!
若き日の絶望の中で出会ったハイデガーを読みたい一心で大学に進学。
哲学三昧の日々はいつしか50年を経過した。
現代日本を代表する哲学者が自身の生と哲学を語る。
 
反哲学入門 (新潮文庫)
「形而上学」「私は考える、ゆえに私は存在する」「超越論的主観性」──。
哲学のこんな用語を見せられると、われわれは初めから、とても理解できそうにもないと諦めてしまう。
だが本書は、プラトンに始まる西洋哲学の流れと、
それを断ち切ることによって出現してきたニーチェ以降の反哲学の動きを区別し、
その本領を平明に解き明かしてみせる。
現代の思想状況をも俯瞰した名著。
 
反哲学史 (講談社学術文庫 1424) 
 

 

 

 

 

 

ハイデガー拾い読み (新潮文庫) 文庫 – 2012/8/27

木田 元 (著)

 

 

結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか

配信

現代ビジネス

 

 20世紀最大の哲学者のひとり、マルティン・ハイデガー。  彼が90年前に出版した『存在と時間』は、ハンナ・アーレントら哲学者はじめ、フランスではサルトル、フーコー、ドゥルーズなど「ポストモダン主義」の思想家たちに多大な影響を与えた。 【画像】意外と知られていない…『存在と時間』が「時間」をちゃんと論じていない理由  また彼の説く「本来性」は日本人の「道」の感覚に通じることから、日本でも大変人気の高い哲学書として読み継がれている。  しかし同書は「難解の書」としての魅力も放っているため、チャレンジしてみたものの途中で挫折した方も多いのではないだろうか?   轟孝夫氏の著書『ハイデガー『存在と時間』入門』は「ハイデガーが本当に言いたかったこと」を10年かけて解明した一冊だ。  ハイデガーの説く「存在」とは一体なんなのか?   今回は、特別に「入門の入門」として、誰も解けなかったその「真理」を問答形式でわかりやすく、轟氏に寄稿していただいた。

「わかりやすく書けないのか」と先輩や編集者も苦言

 Q: 20世紀最大の哲学者とされるマルティン・ハイデガー。その代表的著作が『存在と時間』ですが、非常に難解な書として定評(? )があります。それにしても、いったいなぜ、それほどまでにも難解なのでしょうか?   A: まず言えるのは、ハイデガーの言い回しに独特の難渋さがあるということです。  『存在と時間』執筆前のことですが、先輩格のヤスパースに論文を見せたところ、「もう少しわかりやすく書けないのか」と苦言を呈されたというエピソードがあるくらいです。また『存在と時間』の前身となった論文を雑誌に掲載しようとしたときにも、担当編集者から言葉遣いが難しすぎると指摘されました。  もっとも、ハイデガーが書き方をあらためることはありませんでしたが。好き好んでそういう書き方をしているのではなく、そういう書き方をするしかないということだったのでしょう。  Q: 「難しくしか書けなかった」のは、ハイデガーが性格的に非常に論理的に厳密な人だったから、正確さを目指したらそうなってしまった、ということでしょうか?   A: そうですね。自分の語りたい事柄をできる限り厳密に語ろうとしたら、結果的にそうなったのだと思います。もっともカント以来、「厳密な学」を目指した哲学は、それ以前の哲学著作に比べて非常に「難解」になりましたから、ハイデガーだけの問題とも言えませんが。

 

 

 

 

 

ハイデガー研究者は「秘教集団」?

 Q: 日本人の場合、通常、翻訳で読むわけですが、言葉の問題も大きいのではないでしょうか。  A: おっしゃる通りです。インド=ヨーロッパ語族に属するドイツ語と日本語ではまったく言語としての「システム」が違います。あとでお話しする「存在」という概念も、日本語で通常、私たちが考えているものと、ギリシア以来のヨーロッパでの認識とでは、実はかなりずれがあるので、そのことも理解を困難にしているかもしれません。  Q: すると、日本語に訳すのは相当に難しいでしょうね。  A: とくに日本のハイデガー学者の場合、ハイデガー独自の術語に引っ張られて、ハイデガーの翻訳だけでしか用いられない、本来、日本語にはない訳語を作ってしまいます。そして今度はそうした訳語が「定訳」として固定され、その訳語の使用がハイデガーに忠実であることの証明みたいになる。それでハイデガー研究者といえば世間から、変な言葉を振り回す秘教集団のように見られてしまうのです。  Q: もともとドイツ人にだってわかりにくいのに、翻訳で読むと、さらにこんがらがってくる。まさに日本人にとっては二重苦です(笑)。  だからまず轟さんの本(『ハイデガー『存在と時間』入門』)を読んで、ハイデガーが言いたかったことへの理解を深めてから本体の『存在と時間』を読んだ方が、一般人にはぐっとわかりやすくなる、ということですね?   A: それでは本の宣伝ですよね(笑)。でも自分としては、一度、ハイデガーが何を言おうとしているのかに立ち返り、できるだけわかりやすい日本語で語るよう精一杯務めたつもりです。その上で細部の議論にこだわりすぎることなく、全体の議論の筋道というか構造を示すことに重点を置いたので、拙著をお読みいただければ、『存在と時間』の議論がすっきりと見通しやすくなると思います。

なぜハイデガーは「人間」を「現存在」と呼ぶのか

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 Q: では本題に戻りましょう(笑)。言葉遣いの難解さの1つの例として解説していただきたいのですが、『存在と時間』でハイデガーは「人間」のことを「人間」とは呼ばずに「現存在」と呼びます。でも、なぜ「人間」ではいけないのですか?   A: 「人間」というと、あの人もこの人も「人間」ということでは同じになってしまうでしょう? でもハイデガーに言わせると、人間にとって本質的なことは、「私」と「あなた」、「彼」、「彼女」がそれぞれに、絶対的に異なった存在であることなんです。  つまり各自はそれぞれが「自分だけの」現実に直面しているのであって、現実問題として、その「現実」に対応することができるのは、私以外にはいないわけです。  Q: それは個々人にとっては、またずいぶんとシビアな「現実」認識ですよねえ。救いがないというか。  A: たしかにそうとも言えますが、自分がそのときそのときに置かれている状況をよく胸に手を当てて考えれば、われわれの日々の生き方というのは、そもそもそういうものでしかありえないのではないでしょうか。  例えば何か困ったことがあるとき、ある人に相談して、その人から「こうしたら」とか「ああしたら」とアドバイスを受けることがありますよね。でも、結局のところ、やはりそれは「私自身」の問題であって、いかに親身に相談に乗ってくれたとしても、その人の問題ではないでしょう?   他人には、私が置かれているほんとう状況はわかりません。助言されたことをするかしないかも私次第、またその結果も私が引き受ける他はないですから。  Q: だったら単に「私」と言えばいいのではないでしょうか。  A: 「私」を他の人ではない「私」たらしめているのは何でしょう。自分固有の状況に直面して、その中で自分のあり方を選び取っていくこと、そしてその繰り返しが「私らしさ」を形作っていくのではないでしょうか。単に「私」と言うだけでは、あたかも「私」という実体がすでに存在しているかのようで、今述べた「プロセス」が抜け落ちてしまわないでしょうか?   ハイデガーは何よりも、われわれがそれぞれ自分固有の「現場」をもっている点を強調したかった。それで、「現」―存在と言うわけです。

 

 

 

じつは研究者もよくわからない「本来性」

 Q: すでにかなり面倒な話になってきました(笑)。ただ、どうやらハイデガーの基本的なスタンスは非常に倫理的なんだということは、わかったような気がします。  「存在」とは何か、その定義が当初の問題だったはずなのに、ハイデガーが人間の、じゃなかった、現存在の「本来的な生き方」「非本来的な生き方」にこだわるのも、正しい「認識」は正しい生き方につながるものでなければならない、そう考えていたからだったのですね。  でもこの「本来性」「非本来性」という言い方も、一般的には非常に評判が悪いですよね。自分だけが真理を知っていて、無知な一般人に「本当のこと」を教えてやる、という、まさに知識人の典型的な「上から目線」。  A: いや、むしろ知識人の方が「本来性」とか「非本来性」と言うのを嫌がりますよ。リベラルな価値観からすると、「本来的な生き方」だとか「非本来的な生き方」といった「決めつけ」は他人の生き方への余計な介入になりますから。ハイデガーの専門家でも「本来性」をはずして解釈する人は多いんです。  Q: それは意外です。  A: 私も研究を始めた頃は「本来性」を真正面から論じるのはちょっと恥ずかしいなと思っていました。でも自分がなぜハイデガーに惹かれたのかをよく考えてみると、やはり世俗的な生きかたを徹底的に拒絶しているところと、それに代わる生き方が提示されているところにあったことは否定できません。それである時期からは臆面もなく「本来性」を取り上げる路線に転向しました(笑)。  Q: たしかに「非本来性」、つまり「ダス・マン」(ひと、世人<せじん>)を論じているところは、「ひとがそうしてるから」、「みんながそうしてるから」という大衆の右にならえ的なあり方をよく捉えているような気がします。でも、「死への先駆」とか「良心の呼び声」とかの議論が延々と続くと、もう、いったい何を言ってるのか・・・。  A: とにかく「本来性」というやつが理解しにくいんですよ。さっき研究者が「本来性」をあまり扱いたがらないと言いましたが、ハイデガーが語っている内容がよくわからないというのも、その理由のひとつなんです。わからないから無視しちゃおうと(笑)。  Q: やっぱりね(笑)。その「本来性」の議論にも絡んでくると思うのですが、本書ではハイデガーのスタンスを「宗教的」といいますか、キリスト教と結びつけた議論が目立ちます。  A: じつは『存在と時間』をよく注意して読んでみると、要所要所で、今論じていることはキリスト教の教えを背景としていますよ、という注記が挿入されていて、そこで参照せよと言われているものを調べてみると、もともと「本来性」には神に従った敬虔なあり方、「非本来性」には神に背いて「原罪」に囚われた生という原イメージがあったことがわかるんです。  『存在と時間』はそうした「宗教」の概念を使わないで、一人の人間としての「正しい」あり方がどのように捉えられるかを示そうとしたのだ、そう読むと、「本来性」も「非本来性」もすっきりわかるようになりました。

 

 

 

結局、「本来性」に則った生き方とは?

 Q: キリスト教を下敷きにはしているけれど、とくにその「信仰」は前提としない一般的な話になっていると。  A: さっき「各自はそれぞれが『自分だけの』現実に直面しているのであって、現実問題として、その『現実』に対応することができるのは私以外にはいない」という話をしたでしょう。それをあなたは「シビアな現実認識」とおっしゃいました。  でもシビアというより重たいんですよ、こうした「現実」に直面させられていること自体が。だからこの重荷から「逃避する」のが、非本来性の根本的な意味なんです。  なにごとでも、判断は他人に委ねた方が楽でしょう? 組織に所属していれば、「上」の命令に従っていればいいわけだし。もちろん、それですべてがOKだというのは幻想にすぎないのですが、あまりにも自分という存在が「重い」ので、そういった気休めに、ついしがみついてしまう。これが「非本来性」、つまり他者に埋没した「ダス・マン」というあり方です。  Q: 非本来性はまあそれでいいとして、「本来性」に則った生き方は、結局どうなるのですか?   A: 今言った非本来性の逆の生き方です。自分だけの現実に直面させられているというその重荷をきちんと真正面から引き受けること。「ひと」に判断を委ねるのではなく、自分のあり方を自分で責任をもって選択していくこと。「おのれ固有の存在を気遣う」とハイデガーが言うのはそのことです。キリスト教だと「神に忠実に」というところが、ハイデガーでは「自分の存在に忠実に」──となるわけです。  Q: じゃあ、結局は「俺様は正しい」。俺様バンザイみたいになっちゃう?   A: それは短絡してますよ。先ほどお話しした、「自分」、「私」の本質を思い出してください。自分だけの現実に直面させられて、自分の責任でおのれのあり方を選び取っていかなければならない、というのが「私」の本質でした。だから「自分の存在に忠実に」とは、今述べたような自分のあり方を直視して、そこから逃避しないことになるわけです。  思い切って言うと、孤独であることを恐れないというか、孤独を引き受けるという感じでしょうか。「嫌われる勇気」、というと言い過ぎかな。でもまあ、ひとに嫌われることは確かでしょう(苦笑)。  Q: それで思い出したのですが、『存在と時間』が出版されたのが1927年でした。第1次世界大戦で、人類は初めて大量死を経験した。それまでは科学万歳、人類の進歩万歳でやってきたのが、それがとんでもない間違いだったことに初めて気づいた。それまで前提にしていたものがすべてガラガラと崩壊してしまった…。つまり、今現在のわれわれの「感度」が生まれた時代だったのですよね。  A: よく大戦間のこの時代は「不安の時代」と言われます。こうした「気分」の中からファシズムやナチズムが生まれてきたことも、しばしば指摘されるところです。『存在と時間』でハイデガーが「不安」を分析しているのは有名ですが、まさに「不安」とは、ハイデガーによれば日常的世界が崩れ落ちて無意味になってしまった、寄る辺ない「気分」とされています。  Q: そういう時代の「気分」に、ハイデガーが投げかけた「正しい生き方」への問いかけが「刺さった」のでしょうね。  A: まさにそうだったんです。第1次世界大戦後にそれまでの国家体制は崩壊し、キリスト教の無力も露呈され、「西洋の没落」が意識されるようになった。ハイパーインフレでお金の価値がなくなるということもあった。  先ほどあなたがおっしゃったように、人々がそれまで信頼していたものすべてが崩れてしまったわけです。これまで「ある」と思っていたものが、実は「無」でしかなかった。一体「存在」とは何を意味するのか──そう捉えると、ハイデガーの「存在の問い」は、それ自体が生の新しい基盤を求める切実な問いだったことがわかります。  *  【つづきの「意外と知られていない…『存在と時間』が「時間」をちゃんと論じていない理由」で、結局、ハイデガーの言う「存在」とは何だったのか、に迫ります! 】

轟 孝夫(防衛大学校教授)

 

 

 

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