生物学者が歳をとってわかった「人生の意味」、人間にとって「自我」こそ唯一無二のものである(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース
生物学者が歳をとってわかった「人生の意味」、人間にとって「自我」こそ唯一無二のものである
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脳の構造上、動物は「死」を怖がったりはしないという(写真:HIME&HINA/PIXTA)
生きている以上、いずれ誰もが直面する「死の恐怖」ですが、生物学者の池田清彦氏は、そうした恐怖は、ある「当たり前の事実」に目を向けることで乗り越えられるといいます。70歳を過ぎて池田氏が気づいたその事実とは、いったいどんなものなのでしょうか。 池田氏の著書『「頭がいい」に騙されるな』から、一部抜粋・編集して紹介します。
■進化論に基づいた「最適な生き方」を考える
私は大学や大学院で生態学を学んでいた頃から進化論に興味があった。当時の進化論は「ネオダーウィニズム」が主流だった。これは「突然変異と自然選択」を進化の主な要因とする考え方である。
大学院の頃にリチャード・ドーキンスの提唱した「利己的遺伝子」の話を知って、その後に山梨大学で講師として教壇に立ったときも、なんとなく怪しい理論だと思ったけれども、主流の理論なので学生にはドーキンス流の進化論を教えていた。 しかし、しばらく経つと「ネオダーウィニズムは壮大な錯誤体系ではないか」と考えるようになった。 そのときに思いついたのが、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの提唱した構造主義を生物学に当てはめて、進化論をネオダーウィニズムとはまったく異なるパラダイムに書き換えるということだった。
これは簡単に言うと、「生物の形質を決めるのは個々のDNAというよりも、DNAの発現を司るシステムであり、これは進化史的には恣意的に決まる」という考え方だ。 たとえば人間とチンパンジーはDNAの98.8%が同じで、それなのに外形も能力もまったく異なるのだが、その違いは個々のDNAに起因するのではなく、生物としてのシステムの違いによるものだと考える。 あるいはクジラとウシやカバ、キリンなど偶蹄目との違いもそうだ。DNA解析によると、クジラは偶蹄目のカバと系統的に近く、現在の生物学ではクジラと偶蹄目を同じグループに入れる流れがあるのだけれど、それぞれ身体の形態や機能はまったく違う。
これは進化の過程でシステム上の大きな変化が起こったからだと考えられる。
■環境に「合わせる」のではなく、環境を「選ぶ」
つまり、ネオダーウィニズムでは環境に適した突然変異が選択されて、生物が徐々に環境へ適応していったと信じられてきたが、そうではないということ。 クジラは水中での生活に適応するために突然変異と自然選択の繰り返しで今の形態になったのではなく、5000万年前のクジラは4本の足で地上を歩いていたが、脚がなくなってしまったので、仕方なく海に生活の場を求めたという考え方である。
そして人間も、環境に自分を合わせるのではなく、自分にとって都合のいい環境を選んで結果的に「適応」したようになるほうが生物として自然なのではないか、というふうに私は考えている。私はこれを「能動的適応」と呼んでいる。 コロナ禍のときに気づいた人も多いだろうが、会社のルールに縛られて働くよりも、自分の働きやすいところで働くことが生物としての本性に合っている。リモートで会社の業務がしっかりこなせるのなら、無理に定時出勤する必要はないだろう。
逆に他の人と直接会って会話などをしないと、仕事をしている気にならないという人もいる。 どちらも好きなように選ぶことができて、「ずっとリモートでもOK」「会社に立ち寄らず外回りだけをしていてもいい」というように、いろいろな仕事のやり方を選ぶことのできる会社が増えれば、徐々に日本の社会も変わっていくのではないだろうか。 自分の個性に合わせて能動的に適応するのが、生物としては正しい生き方なのだ。
■「人生に生きる意味なんかない」ことに気がついた
極論を言えば、人生には生きる意味はない。
ネガティブな思想のように聞こえるかもしれないが、
これはきわめてポジティブな思想である。
「生きる意味」というものは「生きる目的」とセットになっていて、このことばかりに気を取られてしまうと、何か特別な目的が見つからないと生きることがつらくなり、周囲と自分を比べることが増えて孤独になり、最悪の場合は自殺に至ったりもする。
昆虫学者のジャン・アンリ・ファーブルは再婚相手との間で、64歳、66歳、71歳にして子宝に恵まれたという。
そんなファーブルの年齢を超えた今、71歳で子どもをつくることの意味がわかるようになったかというと、やはりよくわからない。肉体的な老化については身に染みてわかるようになったが、それ以外には、歳を取ったからといってわかるようになることはあまりない。
だが、そんななかでもよくわかったのが「人生に生きる意味なんかない」ということだった。若い頃は、頭に余力があって余計なことを考えることもできるから「人生の意味」などということも考えたくなるが、心を虚しくして見てみれば、人生に意味などないのは当然のことのように感じる。
そもそも悠久の宇宙の歴史から見たときに、人類の生存や繁殖などはあまりにもちっぽけで、そのこと自体からしても何か意味があるようには思えない。
「人生に生きる意味などない」ということがしみじみと腑に落ちてから、私は死ぬことがあまり怖くなくなった。私は若い頃から、完膚なきまでの無神論者で宗教に魅力を感じたことは一度もない。宗教を信じる人というは、結局のところ、死ぬのが怖いのだと思う。
人間と違って動物は苦痛から逃れたいとは思うだろうが、死ぬことに恐怖を感じたりはしないだろう。動物は脳の構造からしても、人間のように確固たる自我を有していないので、そのような哲学的思考をすることはまずあり得ない。
人間が死を恐れるのは、自我がなくなるからだ。
現在の脳科学によると、自我は前頭連合野に局在するらしい。
この部分は他の動物と比べたときに、人間がいちばんよく発達している。
個人の内的な感覚としては、自我は自分以外の全存在と拮抗する唯一無二の実在である。死ぬということは、自分以外の存在物のほとんどが無傷のまま保たれるのに、自分にとって唯一無二の自我が喪失することを意味する。
つまり死を怖がるのは、自我の喪失を恐れているからであり、生きている人間にとっての自我とは、それほど大切なものだとも言える。
■自分の生き方は「自分で決める」ことが大切
だからせめて、生きている間は自我をしっかりと大事に保っていきたいものである。そのためには、自分で自分の生き方みたいなものをしっかり決めて、それをなるべく守っていくことが大切だ。 自我を守るといっても「自分の好き勝手をしてデタラメに生きろ」ということではなく、自分で規範をつくることが重要だ。他人から与えられた規範ではなく、自分で一種の「マイルール」をつくり、それを守っていくという生き方だ。
このときに法律に違反するようなマイルールではダメなのだが(ダメという意味は、倫理的や道徳的にダメということではなく、この現実世界では法律を守らないと生きづらいからという意味だ)、そうでなければどんなルールをつくろうとも、それは自由だろう。
最近の研究によると、
人類の自然寿命は38歳くらいだという。
チンパンジーもゴリラもネアンデルタール人もだいたいそのくらいで、
生物学的には人間も同じくらいだというのだ。
それなのに人間の寿命だけが延びたのは、医療と食べ物の影響だと考えられる。
■40歳以降の人生は「オマケ」のようなもの
ともかく、本来の寿命が40歳くらいまでならば、それ以降はオマケの人生のようなものである。だったら儲けものだと思って、好きなように楽しんだらいい。世間のルールにとらわれず、法に触れない範囲で自分のルールを持って生きていけばいいのだ。 健康のためだといって無理をして食事を制限したり、禁煙や禁酒する必要もない。
それをやったからといって長生きするとは限らない。かつてフィンランド保健局が、40~45歳の働き盛りの男性1200人を対象にして「健康管理をしっかり行った群」と「なんの指導もしない群」に半々に分けて追跡調査を行った。 15年後の結果はどうなったかというと、管理された人は67人、管理されなかった人は46人亡くなったという。管理されていた人のほうがたくさん亡くなっていたのだ。
このことの意味は、管理したところで特別に健康になるわけではなく、かえって管理されることのストレスのほうが害になるということなのだろうと私は解釈している。そしてこのことは今の日本にも当てはまることだと思っている。
池田 清彦 :生物学者
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