大部、昔に、

近くの伝道所で、講師にお呼びして、丸1日の講義を受けました。

非常に真っ当な信仰の持ち主です。

お名前と逆の「野生児」の風貌でした。

そして、広い学識の下で、論理的に、はっきりと、ご説明して下さいました。

熱意が伝わり、熱心に学びました。

また、性同一性障害の方(男性で女装)の質問とご発言も印象深かった。

よい学びだった。

 

聖書とは何か、どんな成り立ちをしているのか、

聖書に収められている諸々の書物は何を伝えているのか、

旧約と新約、ユダヤ教とキリスト教の関係は――等々、

聖書に関する基本的な疑問に、気鋭の聖書学者が徹底的に答える。

 また41個の強力「コラム」は、一歩踏み込んだ知識を提供し、

聖書の奥深さを面白く伝えてくれる。

聖書解説書の決定版であり、最強の入門書である。

《シリーズ 神学への船出》
00巻=佐藤優『神学部とは何か』、
01巻=辻 学『隣人愛のはじまり』に続く、 待望の続刊!

【41個の強力なコラム】
フラウィウス・ヨセフス/使徒信条/「聖典」と「正典」/文書資料仮説/全知全能の神?/神名ヤハウェ/二つの選民思想の同一化/レビ記、民数記、申命記/「歴史」とは/哀 歌/申命記と申命記史書/正義と倫理の陥穽/預言者たちのダビデ王朝イデオロギー/苦難の僕/ユダヤ教の祭司職――大祭司、祭司、レビ人/四書、六書、九書?/文化的覇権主義の系譜/聖書の中の女性性/「宗教」概念とキリスト教/エチオピア語エノク書(第一エノク書)/黙示思想/コヘレトの言葉とキリスト教/死海文書/メシアと「人の子」/祭司系メシアと二人のメシア/洗礼者ヨハネ/終末待望と宗教的敬虔という不信仰/贖罪論/パウロに関する絶対年代/「永遠の生命」というエゴイズムと倫理的完全主義/「信による義」/十字架の神学/獄中書簡――フィリピ書、フィレモン書/パウロの救済史/日本におけるマルコ理解/「神の国」と「天国」/やもめ/グノーシス/シオニズム運動と国民国家/自由主義神学と原理主義/女性の牧師・同性愛者の牧師

旧約聖書と新約聖書 (シリーズ神学への船出) 

2011/11/25 上村静 (著)

 

 

終末の起源

2021/11/25 上村静(著)

終末に向けて直進する時間と、いま・ここで、そのつど創造され続ける時間──
二つの時間意識の生成と交錯のドラマを追って、古代ユダヤ教とその周辺の諸文書を旅する。
原初史物語から黙示文学まで、死海文書からグノーシス文書まで、そして
キリスト教の成立と、イエスとパウロをめぐって、世界像創出のシナリオを描く
 来世願望へと導くこの現実への呪いか、予定調和を破壊する知恵と罪の発見か。
終末論と創造論の系譜を、キリスト教を生んだ壮大な文書の海を背景に浮かび上がらせる。
人間の学としての聖書学の達成。
 
上村 静(うえむら・しずか)
 1966年生まれ. 専攻, ユダヤ学, 聖書学, 宗教学. 
94-98年, ヘブライ大学に留学. 
2000年, 東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野満期退学. 
2005年Ph.D.取得(ヘブライ大学). 
現在, 尚絅学院大学教授, 死海文書翻訳プロジェクト編集委員(全12冊, 既刊7冊, ぷねうま舎). 
著書, 
『宗教の倒錯──ユダヤ教・イエス・キリスト教』(岩波書店,2008), 
『旧約聖書と新約聖書──「聖書」とはなにか』, 
『キリスト教の自己批判──明日の福音のために』, 
『国家の論理といのちの倫理──現代社会の共同幻想と聖書の読み直し』編著
(新教出版社, 2011,13, 14).
 
==或る書評より
この本は終末論を批判しています。どのような点が批判されているのでしょうか。

 わたしは、この本を読むまでは、終末論について肯定的な印象を漠然と抱いていました。それは、わたしたちが生きている社会や歴史には暴力、権力を持つ者たちによる支配、抑圧、不正義が根強くはびこっているが、歴史の最後には、神が平等、平和、正義の世界を完成してくれる、それを信じて、歴史の中で今は不正が支配しているように思えても、わたしたちは、少しでも正義に近づくように歩んでいこう、という希望を与えてくれるからです。

 それでは、著者はなぜ終末論を批判するのでしょうか。

 「人間は努力次第で『義人』になることができ・・・他方で『罪人』は裁かれるという思想、ここに終末論の前提とする二元論的世界観の根本問題がある」(p.8)。

 そして、「努力次第で『義人』になることができる」ということは、「人間は『神のように』なれるということになる」(同)と著者は言います。

 さらに、著者は、これを現代社会の問題と重ねて、金持ちは禁欲的で勤勉な「義人」であり、貧者は怠惰の報いを受けた「罪人」と見なされてしまっている、と指摘します。たしかに、裕福は努力の結果、貧困は怠惰の結果の自己責任、という暴言が今の世界には出回っています。

 さて、著者によれば、旧約聖書には大きく二つの系譜があると言います。ひとつは、人間は神の前に不完全であり、愚かであり、悪い思いを持つ者であると認識し、そのような人間のひとりである王の支配に反対する「審判預言」。これは、「人間の被造性を確認するので『創造論』」(p.33)とつながります。

 もうひとつは、人間はいつか神のような理想的な存在になれるとする「救済預言」。これは、「未来の完成を展望するので『終末論』」(同)とつながります。

 本書では、それらのことを、聖書外のユダヤ文献も引用して、論じています。引用されたテキストはかならずしも読みやすいものではなく、著者が説明してくれているその内容も複雑なので、飛ばし読みして、章ごとの結論だけ読むようにしても構わないかもしれません。

 新約聖書では、まず、洗礼者ヨハネには終末論的二元論がうかがわれます。「悔い改めよ」と言われても、「職業的または身体的理由により『罪人』と見なされた人たちにとっては、職を変えるか病を癒すしか『罪』から逃れるすべはなく」(p.190)、「罪人」のままにされるからです。

 イエスは、最初はヨハネのもとに行ったものの、やがて、上述の「『罪人』とされた者たちのもとへ行き、彼らの友となっている。黙示思想では、被造世界は終わりを迎えるはずだが、イエスは自然界にはたらく神を見ている」(p.198)と著者は言います。

 しかし、イエスの死後、弟子たちは、「キリスト神話を作り上げ、それを受け入れるか否かがその者の『救済』か『滅び』かを決定するという二元論的世界観へと突き進み、セクトを形成して熱心な宣教活動を行うようになった」(p.206)というのです。

 パウロも、最初は、律法遵守による自力救済から神の然りによる他力本願型信仰に目覚めたが、やがて、自分の「信仰」を救いの条件として、自力型に戻り、信じる者は救われるが、信じられない者は救われない、というところに陥ってしまったといいます。

 最後に、著者は、「終末論は人間が『神のように』完全になりうることの期待を語るが、創造論はその不可能性を弁えることを教える。終末論は高潔さを求めるが、創造論は愛(赦し)を前提とする」(p.222)とし、どちらを選ぶか、読者に問いかけています。

 わたしは、神が人を義人罪人とレッテル貼りをせずに、無条件にいのちを与えているように、神の無条件の愛が人間の価値観や社会にみなぎる終末に究極の希望を抱きつつ、すべての人が平等であることが認識され、そのように扱われる社会へと少しでも前に進もうと努力するのが良いと思います。しかし、その努力が査定の対象になってはなりません。

 ポイントは、終末そのものというよりも、
人が人を義人罪人と差別することへの批判
あるように思いますが、終末論がそれとセットなら当然批判されるべきでしょう。
 

==或る書評より

この本は、終末論とその反対の意味で創造論という用語を作り、

(注:これは無知な指摘・批判!)

各文書や宗派を、そのどちらか一方に割り振ることで、話の展開をしています。

そして、肝心の終末論そのものについては詳しく書かれていません。


それは、

「霊魂不滅の思想がヘレニズム文化の影響でユダヤ教に入り込んできた」と述べているように、

作者自身が、「霊魂」の存在を認めておらず、

その認めていない人が、終末論を語っていることに、原因があります。


イエス・キリストの行った病気治療に対しては、

『奇跡物語は、イエスがその異能を用いて病気を癒す物語であるが、それを忠実の報告と取る必要はない。』とさえ言い、

『イエスが癒したのは、疾病でも病者に帰せられた病でもなく、

社会の「病」なのである』と、新約聖書が嘘を書いていると言わんばかりの侮蔑の言葉を記載しています。

 

(注:批判的な読み方に、初めて出会ったが、まともな信仰の方の、正直な感想です)
作者は、イエスが戦った、タルムード学者(ファリサイ派)なのではないかという印象を持ちました。