瑩山禅師は、道元和尚の「原始仏教」を封印した人物である。

 

「天台密教僧」大日能忍禅師が

「無師独悟」して、

「梵我一如のお悟り」を体験し、「日本達磨宗」を布教した。

 

瑩山禅師は、この「日本天台宗、達磨宗派」の五世である。

三世「懐鑒」禅師、四世「義介」禅師と「嗣法」してきた。

 

だから

「天台密教」も信じているし、

白山神社=観音信仰、白山山岳修験道、夢のお告げ、…、

みんな「本気で」信じている

 

葬式も、信じて行っている。

金を確保するためではない!

 

繰り返すが、

瑩山禅師は、道元の教え「原始仏教」と、全く反対である

 

 

だから、

以下のP65の主張は、誤りである。

 

瑩山禅師は、宗派の経済基盤を確立する必要もあって

密教的な加持祈祷や祭礼を取り入れていく。

 

葬式は、要らない (幻冬舎新書 し 5-3)

 

葬式は、要らない

2010/1/28 島田裕巳(著)

宗教学者、作家。東京大学文学部卒業、同大学大学院人文科学研究会博士課程修了(専攻は宗教学)。

放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、

東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。

現代における宗教現象、新宗教運動、世界の宗教、葬式を中心とした冠婚葬祭など、宗教現象については幅広く扱う。

 

 

==或る書評より

宗教学者の書いた、日本の葬式の現状と葬式無要論。
しかし、

じつは葬式を否定しているのではなく、

戒名や檀家制度といったことを通じて

贅沢になった葬式仏教を否定している。

人を葬るということを否定しているわけではない。多くの人に参列させ
華美な祭壇(来世への期待という)や高額な戒名といった贅沢な葬式を
無意味と断じつつ、故人を偲ぶ葬式は肯定しているし戒名を自分でつけ
ることすら提案している。

葬式仏教無要論であって葬式無要論ではない。

 

 

==或る書評より

人は必ず死にます。老いも若きその年齢に仏教的な因果応報はなく、自然の摂理です。

人が死ねば、普通は通夜、葬式、戒名付け、火葬、初七日、四十九日、納骨、あとは、機会あるごとに遺族が墓参りがありますが、、
これは、死んだ本人が望むと望まないと限らずに、残された遺族の意向で、メモリアル(死者を忘れないとか先祖供養と称して)行います。

以前、亡くなった俳優の松田優作さんは、「人は二度死ぬ、一度目は心臓が止まった時、二度目は忘れられた時」と語っています。

死んだ人は、必ず忘れられることになります。
生前のその死者を知っている人がいなくなったり、
知っていても生前にご縁が薄い人は、自分が生きることが当然優先されますので、
メモリアル、つまりその生前の姿なり存在の記憶、も薄くなり忘れられます。

過去帳がある家には、名前の記載は残りますが、
墓も墓参する遺族がいなくなり、管理する人がいなくなれば草が生え、無縁墓になり、法的にも処分も許されています。
もちろん、戒名を書いた木の札も、メモリアルのない人にしてみれば、ただの木の札。忘れさられます。

さて、この忘れさられるまでに、通夜から数えたら、メモリアルのために(メモリアルが無駄とは言わないけど)、葬儀屋から、寺、墓代といくらのお金を死者のために使うのでしょうか?
メモリアルしたい遺族はお金をかけてもしたいと願うならば、やるのも自由でしょう。
でも、それはあくまで、亡くなった死者の意向とイクオールとは限りません。

自分が知らない先祖の方がいるから、今の自分が存在していられることに、知らない先祖とはいえ、敬意は忘れてはいけないと思いますが、
それと、このこの死者のセレモニーとは別もので、完全に産業化し、商業ペースで進められ、たくさん葬式に参拝者がきてくれたから嬉しい、少なかったら悲しい。残された遺族のある意味自己満足的なものにお金を使っていることも事実です。

現在、超少子高齢時代をまっしぐらに亢進し続けているこの国で、結婚しない、子供を残さない時代に、
昔のような「○○家代々墓」というものを構え続けることができるものでしょうか?
昔に比べて、「二度目の死」がくる時間のペースはかなり早くなるはずです。

無縁墓になって、お骨も処分されて、土に還ります。時間はかかりますが、土葬と同じことになります。

信仰がある人は、輪廻などというものにこだわる人もいるでしょうが、
信仰がない人は、死んだら終わりです。土になって、自然に還るのが本来の姿だと思っています。
私は後者のほうです。

私にはまだ片親は健在ですが、兄弟は弟夫婦がいるだけです。
その夫婦の子供は墓参するでしょうが、弟の孫はどうかわかりません。
今、私が死んだとしても、墓参してくれる人は50年もいてくれないでしょう。
私も曽祖父、曾祖母の顔も知りませんし、墓参もしたことがありません。
もうメモリアルでも何でもありません。

私も、遠くない将来そうなります。

宗教上の教義云々はさておいて、一度目の死から二度目の死まで、
正直、完全に産業化し、商業ペースではかられ、
高額な墓や葬式代をかけようが、かけまいが、50年もすれば無縁墓、独身で子供なしだと、無縁仏扱いになります。
つまり、その産業の人からしたら、死体はお金を生む道具でしかないように思えてなりません。

年数の違いはあっても、どっち道、本来の姿「土」に還るのであれば、
遺族のメモリアルは高額な儀式や墓代を使わなくても、
生前のアルバムが一冊あれば充分に思います。

戒名も寺につけてもらったら、何十万も請求されます。
でも、そもそも、死後の世界があることを前提の名前で、一種の宗教上の教義のことでしかありません。
しかも、値段によって、戒名のランク付けがあるなんてのは、死者への冒涜に思えてなりません。
戒名なんてなくても、生前の名前で充分だと思えば、戒名も不要に思います。

死体の埋葬は、勝手にやったら法にふれますので、ふれない範囲でやるのも自由です。
宗教上の教義も、所詮は商業ペースに乗せるための方便でしかありません。
誰でも、死んだら忘れられます。メモリアルはなくなります。

ただ、生前にお世話になった方に、お別れの会を開きたいと願う遺族もいると思います。
それは、葬式という形式をとらずとも、知恵をだせばできることかと思います。
喪中のはがきも無意味です。
近い親族に死者がでたとしても、残された人は無事に生き残って年を越せたわけですから、
「あけましておめでとうございます」が普通にあってもいいと思います。

宗教上の教義や輪廻や成仏などの考えにこだわるのでしたら、それにお金を使うのも自由です。
所詮、単なる価値観の問題でしかありません。

生前の信仰がどうであろうと、人が死んでたどる道は決まっているのです。

それならば、メモリアルという商売にお金をかけるよりも、生前の友人や世話になった人を呼んで、
宴会でもしてもらったほうが、死者の意向により近いものではないでしょうか。

私は、もう親族に言ってますが、葬式不要、戒名不要、喪中はがき不要、納骨の処理は残った親族で考えてくれたらいい。
死に方によりますが、献体も希望しています。
病院で火葬までしてくれて、骨が遺族に帰るまでに、数年かかるようで、
その数年で、ほとんどの人の中では、私は二度目の死を迎えることができます。

死人に口なしですから、生きているときに、自分が死んだらどうして欲しいという意向は伝えておくべきです。
お金のかかることをして欲しい意向があるならば、そのお金は、ちゃんと自分が準備しておきましょう。
お金をかけない意向なら、法に触れない範囲で、
商業ペースからはずせば、死亡届と火葬代(献体すれば、火葬まで病院がしてくれます)、くらいで済むはずです。

いつまでも、死んだもののことを思い出しながら、生きていてもしょうがありません。
死んだものが、生きている人が困った時に助けることもありませんし、いいことがあっても、一緒に喜んでもくれません。
そう信じたいのは、遺族の心情の上でのことだけです。
葬式をしないからといって、化けてでることもありません。怒って枕元にたつこともありません。
そう感じる時も、遺族の心情の上のことだけです。死者は怒りません。喜びません。悲しみません。
死んだら、人生ゲームオーバーです。何も残りませんし、その後もありません、
さっさと、忘れてくれればいいと思います。
それでも、死者はちゃんと「土」に還れます。

それが自然な姿だと私は思っています。

 

==或る書評より

人生半分を終えて(80歳超まで生きるとして),親の葬儀,自身の葬儀も含めた『人間の死』について気付きを与えてくれる書籍です.葬式は結婚式とは異なり事前に計画を立てて進められる行事ではないので,その分余分に,事前に知識を持つ必要があると感じました.葬式はいきなりやってくる,予備知識無しでは対応できないということです.今後,自身で葬儀を仕切る場面が来たときに不安だった,「戒名はどうすればいいの」,「お布施の相場は」,「そもそも葬式はどういうしきたりに従うの」など,概ねのことが分かるように解説されています.特に関連知識について小生は無知でしたので.

葬式の考え方が変わってきた背景に,我々日本人の生活スタイルの変化が影響しているとのこと,そう言えば我が家にもお仏壇はないし,お墓は実家にあるモノの,寺の住職とは面識があるわけではありません.これは,戦後の核家族化が進み,家(家系)と仕事の繋がりが薄れ,特にサラリーマンの家は仕事と別次元,切り離すことを良しとするメンタルヘルスの勧めがあるような状況にもなっています.このような背景の元に家を中心とした葬儀から個人を中心とした葬儀に変わっていくことは時の流れと考えます.では我々中年世代が行うべき葬式はどうなのか,自身の葬式を子供達にどうしてもらうのかなど,これまで不安視してきたことの回答は概ね得られ,内心『ほっ』としました.

本書から得られた小生の結論として,

・ 葬式に必ずしもカネをかける必要は無い,葬儀すべき人の希望を生前に確認し,
  葬儀される人の為の葬儀としたい.家族葬に近い形で良いのでは?
  (あくまでも,葬儀される人の意向を重視したい,葬儀する側ではなく!)

・ 戒名は誰でもつけられる,自身の戒名は自身でつけよう(ルールは簡単).
  生前に戒名を得ておくことも家族への負担軽減になる,これも家族愛かも?

・ 見栄を張ってたいそうな戒名をつける必要は無い(あくまでも謙虚に).

・ お布施は相場があるが,寺の存続のための一種の寄付と考えると割り切れる.

最後に筆者が言うに,長寿社会となり大往生できれば本人も納得,家族も故人が立派に生き抜いた事を素直に喜べる,それが一番大事なことであり,葬式自体に意味があるわけではないということ.その上で葬式をするのかしないのか,するのであればどうするのかを考えれば良いと言うこと.そもそもの葬式の機能が何であり,その機能を発揮できるのであれば(故人を知る人の同窓会でも良い),それが一番良い葬式なんだろうなぁ〜と思いました.