ことばは国家を超える

 ―日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義

 (ちくま新書)

2021/4/8 田中克彦(著)

日本語と文の構造ばかりか、表現方法、つまり
ものの感じ方までもが共通する言語が世界には多く存在する! 
世界の見え方が変わる、ウラル・アルタイ言語学入門。
 
==或る書評より
言語学が専門でもなく単なる本好きですが面白く一気に読めました。
あとがきより著者の言を引用します。
「モンゴルの言語と文化を世界の中により普遍的に位置づけようとするならば、
必然的にウラル・アルタイ世界を参照しなければならない。
(略)
 モンゴルの状況を知ろうと挑戦しているうちに人生は消費されてしまい、
ウラル・アルタイ説への関心はよどんだままであった。
 しかし、書架の一角には、この六○年間ほどの間に、折々に集めたロシア語とドイツ語の書物が一群をなしていた。それを眺めているうちに、せっかくのこの本たちに、とりあえず一通り目を通しておこうと考えたのである。ぼくとしては、本気でとり組めば半年もかからないだろうとたかをくくったのであるが、そうはいかなかった。関心のあるところだけを拾い読みくらいにとどめ、ぼくがどのようにしてこの道に入ったかを回顧的に述べるところからはじめることにしたのである。
(大幅略)
 ぼくのこの本は、ウラル・アルタイ研究から長い間離れていたことの
もうしわけであり、ふたたびその入口にたちもどった今の感慨と心情から書いたものである。」
 
==或る書評より
久々の田中克彦氏の新刊新書である。1934年生まれ。
概要
五つの章からなり、各章題がそれぞれ本書のテーマになっていると思う。
つまり、
第一章ウラル・アルタイ説の出現とその道のり、
第二章言語の同系性を明らかにする方法、
第三章言語類型論、
第四章日本におけるアルタイ語類型論の受容の歴史、
第五章ツラン主義の誕生。
序章を参考に、勝手にまとめると。
〇ヨーロッパの言語には、多数派主流の印欧祖語(印欧諸語)のほかに、少数派の、非ヨーロッパ語ともいえるウラル・アルタイ語がある。ハンガリー、フィンランドがウラル語族であり、アルタイ語群はテュルク語群(トルコ語)、モンゴル語群、ツングース語群、満洲語群、朝鮮語群、日本語に分かれる。中国語はアルタイ語群には含まれない。
〇言語学研究をアプローチ法によって分けると、言語類型論的な観点の研究と、音韻法則をよりどころにした研究がある。音韻法則では、法則的な音の変化によって、言語が変化し、新しい言語が生じるとする。言語類型論では、個々の単語ではなく、言語全体の特徴を一つのタイプとしてとらえる。この特徴は民族の「心のあり方」に対応している。
〇フンボルトは言語を三つの類型に分類した。屈折型は単語の中味である母音を変化させる。英語など。膠着型は複数を表すのに語尾をくっつける。日本語など。孤立型は文法関係を表す専用の道具がなく、単語の役割は置かれる位置で決まる。中国語。
〇日本のアルタイ学では、「アルタイ語共通基語」と「音韻法則」の発見と確立のために多大な努力が投じられてきたが、それはみな、印欧語比較言語学をまねて、その原則に沿って作られたむなしい架空の創造物である。(231頁)
〇「トゥラン語族」はかって、「ウラル・アルタイ語族」と同じ内容を指した。トゥランは文明の届かない蒙昧の蛮族の地を意味した。ツラン民族運動とは、近代国家の建設に出遅れて、チャンスを失ったウラル・アルタイ語族の政治的独立を獲得するための、文化・政治的行動のことである。(218頁)

二、私的感想
〇大変面白かった。比較言語学という難解な学問の話が、全く退屈せずに最後まで読めてしまうのは、著者の怒濤の筆力によるところが大きい。劇場型といえば劇場型の展開で、批判されている方がちょっと気の毒に思えてくるが、なにぶん、馴染みのない世界の話なので、心地良い田中節を聴いているしかない。
〇第四章の中の「アルタイ語には「持つ」がない」は、アルタイストの先駆者藤岡勝二氏の提言の一つだが、著者はこれを読者に実証していく。私達は兄弟を持っているとか、犬を持つとか、耳を持つとか、会議を持つといった
英語的表現(have)を不自然に思わなくなっているが、
アルタイ語的には「ある」「いる」が正しい。
モンゴル語でも、トルコ語でも、「持つ」「持っている」ではなく、「ある」「いる」である。
ウラル語系のハンガリー語、フィンランド語でも同様である。
ウラル語の影響を受けたロシア語でも同じ。
こういう言語が共有するのは心情、ものの感じ方であるとし、
アルタイ語族間の心の共有、感性共同体、ウィグル人、モンゴル人との連帯、
ヨーロッパ語との所有概念の違い、という方向に発展していく。
なお、満洲語はアルタイ語群だが、中国語はアルタイ語群ではない。

〇本書には、「芸能人のうわさ話」ならぬ、「先輩研究者のこぼれ話」がいろいろ書き込まれている。悪口に近いものもあって、故人にちょっと気の毒だが、なかなか楽しめる。ただし、自分のこぼれ話も書いているので、公平といえば公平である。
あとがきによると、1976年のウランバートルの学会の時、
草原で服部四郎氏の奥さん(タタール人)に注意されたという(242頁)。引用する。
「田中さん、あなたは間違っています。世の中は何でも自分の思うようになると考えているでしょう。
それは間違いです。・・」

私的結論
〇楽しく読んだ。
蛇足
〇150頁で服部四郎氏の書評を批判され、「服部さんが用いた「好著」という言葉がひどく気に入らない。」
「さがしてみたが「好著」はどの辞書にもなかった」「一種のヤクザことば」と書かれている。
しかし、日本国語大辞典には「《好著》よい著作。内容のすぐれた著書。名著」と載っており、
例文が、石橋忍月「舞姫」、中江兆民「一年有半」、内田魯庵「読書放浪」から引用されている。