グリム・ドイツ語辞典 (グリムドイツごじてん)
Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm
執筆者:橋本 郁雄
粛然とする『大漢和辞典の百年』苦闘の記録 世界最大級の辞書、改造社『現代日本文学全集』のブーム終焉が刊行のきっかけ(夕刊フジ) - Yahoo!ニュース
粛然とする『大漢和辞典の百年』苦闘の記録 世界最大級の辞書、改造社『現代日本文学全集』のブーム終焉が刊行のきっかけ
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【花田紀凱 天下の暴論プラス】 こういう本を読むと、長く出版界で仕事をしてきた身として、粛然とせざるを得ない。 池澤正晃さんの『大漢和辞典の百年』(大修館書店)。
諸橋轍次(てつじ)の『大漢和辞典』。B5判、全15巻、
詩経、論語から始まって漢字に関するあらゆる資料を渉猟し、
収録熟語53万語。
世界最大級のこの辞書を企画した大修館書店の創業者鈴木一平と著者、漢学者諸橋轍次の、これは苦闘の記録だ。
大正15年、1冊1円で売り出された改造社の『現代日本文学全集』は、関東大震災後の出版界に、一大円本ブームを巻き起こした。 が、4、5年でブームは終わり、大量の返本の山は反故(ほご)同然で業者が引取り、10銭均一で売り捌かれることになる。 鈴木が、『大漢和辞典』の出版を思い立ったのはそのことと関係がある。
<いやしくも出版は天下の公器である。一国文化の水準と、その全貌を示す出版物を刊行せねばならぬ、これこそ出版業者の果たさねばならぬ責務である>
そう思った鈴木は生命力の長い良い辞書の出版を考える。
鈴木が考えた条件は3つ。
①実際に役立つ便利なもの。
②決して他人の真似(まね)できないもの。
③後世まで残るもの。
で、著者として鈴木が白羽の矢を立てたのが、漢学者の諸橋轍次だった。
スタートしたのは昭和3年。 辞書づくりでまずやらなければならないのはカードづくり。 諸橋が勤めていた大東文化大学の学生たちの手も借りて始めたが、カードはたちまち30~40万枚に達した。 諸橋は刊行計画の拡大、変更を提案する。 すでに編集費も相当に投入してきた。さらにどれくらいかかるか。完成まで何年かかるものか。皆目わからない事業継続に不安もあった。
が、
<半月後、鈴木は諸橋の考え通りの方針で「完全な大辞典」をつくるよう改めてお願いするとともに、
自分の資力と体力の一切を注入して、この事業完遂に一生を捧げようと決心する>。
ここから編集者としての鈴木の本領が発揮される。
<良書の刊行には、著者が思う存分内容を推敲(すいこう)し、研鑽(けんさん)する必要があろう>
そう考えた鈴木は原版全巻を組置き(組みあがった版をそのまま保存すること)とすることを決定。
<ここに一万五千頁組置きという、恐らく出版界未曾有の難行>を敢えて決行した。
組置きにすればその活字量は膨大なものになる。1ページ4段組で1段が21字詰37行、全巻の活字量は約100トンにも達した。
編纂(へんさん)が始まってから10年目くらいがいちばん苦しかった。
毎月の木版代だけで月に100円(現在の500万円くらい)、編纂室には常時15人、社内でも14、15人が内校を進めていた。
<鈴木の長女妙子は、ある時、鈴木が絞り出すような声で「ああマル大(大漢和辞典のこと)さえやってなければ……」と言った声がまだ耳について離れない、と語っている>
戦時中も編纂事業は継続、昭和18年6月、ようやく1万部限定の予約募集が始まる。全13巻で総ページ数1万5000余。
表紙の皮革は最も統制が厳重だったため玉繭を原料とした代替品を考案したという。
が、鈴木と諸橋の苦難は続く。
昭和20年の東京大空襲で大修館は焼失。組置き原板一切が鉛の塊と化してしまったのだ。
以後も続く苦難はぜひ本書をお読みいただきたい。
最終の巻13「索引」が刊行されたのは昭和35年5月。
鈴木と諸橋が刊行を決定してから、実に33年という年月が経っていた――。
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