戦時下の信濃毎日新聞 満蒙開拓を一貫支持 敗戦までの13年で関連記事700本超【鍬を握る 満蒙開拓からの問い】(信濃毎日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

 

戦時下の信濃毎日新聞 満蒙開拓を一貫支持 敗戦までの13年で関連記事700本超【鍬を握る 満蒙開拓からの問い】

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信濃毎日新聞デジタル

日中戦争開戦後も満州移民の「敢行」を求める県方針を報じた紙面=1937(昭和12)年8月8日付朝刊

 戦時下の信濃毎日新聞は、日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」を防衛し、国益を守るとの観点から、満州(現中国東北部)へ農業移民を送り出す満蒙(まんもう)開拓を一貫して支持した。

 

  【グラフ】信濃毎日新聞に掲載した満蒙開拓関連記事の本数の推移

団員募集や現地ルポ

 本紙は満州への移民政策が始まった1932(昭和7)年から、敗戦の45年までの13年間で、満蒙開拓に関連して主なものだけで724本の記事を載せた。ほとんどは政策を後押しする内容だ。時には移民計画の頓挫も伝えているが、紙面での扱いは小さい。  信毎データベースに見出しが収録されている主な記事を確認した。開拓団員やその「花嫁」、14~18歳の男性でつくる青少年義勇軍をそれぞれ募集する記事や、現地に特派した記者のルポルタージュの他、長野県の移民計画を詳しく紹介する「満州移民手引草」(全3回)などがあった。

日中戦争開戦「萎縮するな 満州移民は強化」の見出し

 年別で掲載が最も多いのは36年の122件。それまで満州移民は軍主導の試験的な性格だったが、この年、政府が関連予算を確保して大規模な国策に発展した。同じ年、県は全国に先駆けて県内出身者のみで組織した「黒台(こくだい)信濃村開拓団」を満州へ送り出した。本紙は計画段階から団員の選考会、満州への出発、現地からの近況報告などを細かく報じた。移民に関する特集欄も新設した。  37年に日中戦争が開戦すると、本紙は「事変(戦争)位(くらい)で萎縮するな 満州移民は強化」(8月8日)の見出しで、県が市町村長らに緊急指令したことを伝えている。

紙不足でも満蒙開拓報道には紙幅を割く

 太平洋戦争の開戦翌年の42年は、最初の満州移民実施から10年を迎え、関連記事は116件と2番目に多かった。開拓団長や県職員らによる「満蒙開拓十年を語る座談会」(全11回)、「満州国」の開拓事業担当者らによる「満州開拓指導者に聴く」(全5回)といった連載があり、節目を意識した記事が目立つ。  日本国内の農村で応召や徴用に伴い労働力が不足すると、新たに開拓団員や青少年義勇軍を募るのが難しくなった。このため、団員募集の秘訣(ひけつ)を話し合う「分村推進座談会」(1941年1月15~21日、計6回)などの記事も載せた。紙不足で紙面は12ページから10ページに減ったが、満蒙開拓関連の報道には紙幅を割いた。

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