私たちが日本語を「外国語」として学びなおしたら…いったい何が起きる?(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

私たちが日本語を「外国語」として学びなおしたら…いったい何が起きる?

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現代ビジネス

 思考家/批評家/文筆家の佐々木敦さんによるWEB連載「ことばの再履修」が待望のスタート。初回は「自分のことばを他人の目線で見つめてみる」ことについて。「ことば」の講義が始まります! 

「マイナー言語:日本語」の使用者として

 これから「ことば」について皆さんと考えていきたいと思います。 「ことば」というのは、さしあたり、いま私が書いている、そして皆さんが読み進めている、この文章を構成している言葉、すなわち「日本語」のことです。つまりこれは「日本語ということば」についての講義です。  しかしこのことは、たまたま私が日本語という言語の使用者だから、日本語が主に用いられている環境で生まれ育ち、今も生活しているからであって、もしも英語の環境に生まれていたならば、この講義は「英語」についてのものになっていたでしょう。この意味で「日本語」はまさに「たまたま」でしかありません。この講義で取り上げていくさまざまなトピックは、その多くが日本語以外の言語にかんしても言えることだと思います。  とはいえ、私たちの「ことば」が、たまたま日本語であるという事実はやはり非常に重要だし、ある意味で決定的です。日本語には日本語ならではの特徴や条件があり、それらが私たちの「ことば」使いの基盤となり、言語表現や言語コミュニケーションの可能性を拡げ、また種々の仕方で拘束していることは、事実であるからです。 日本語は日本以外ではほぼ使用されていないマイナー言語です。しかし2022年の調べによれば、世界の言語使用者数ランキングでは13位に位置しています。微妙な順位ですが、世界には現在、およそ7千くらいの言語があるとされているので、まあまあ上位と言えますね。 第1位はもちろん英語ですが、2位は中国語、3位はヒンディー語、4位はスペイン語、5位はフランス語で、中国語とヒンディー語は明らかに国の人口のせいですが、4位以降の日本語より上位の言語を主に使用している国は日本よりも人口が少ない国も多く、つまり母国語を母国以外で使っている人がかなりの数いることになりますが、日本語にかんしては、日本の人口と使用者数がほぼイコールであり、ご承知のように日本は現在、大変な勢いで人口減少が進んでいますから、今後は更にランクが落ちてしまうことが予想されます。  しかし今でも、私を含めて一億人ほどの人々が日本語を使っているので、いわゆる「消滅危機言語」とされるまでには、まだしばらく時間の余裕がありそうです(このままいけば、その「危機」は確実に迫ってくるわけですが)。そして、この「日本の内側でしか通用しない言語」であるということも、日本語の「特徴」であり「条件」のひとつです。  この点にかんしては、あとでまた触れることになるでしょう。しかし今はともかく、この「ことばの再履修」のイントロダクションを続けたいと思います。 そう、この講義には「再履修」という言葉が入っています。つまり「日本語の再履修」ということですが、これはどういう意味なのでしょうか? 今回はまず、このことをお話ししたいと思います。

 

 

 

表現の可能性と「ことばの学校」

 私は2021年から映画美学校という特定非営利活動法人の一部門として新設された「言語表現コース」の主任講師を務めています。コースの名称は「ことばの学校」。  映画美学校は監督やシナリオライター、字幕翻訳者、俳優など、主に映画製作に携わる人材を養成する教育機関ですが、「ことばの学校」は映画と直接の関係はなく、日本語による「言語表現」全般を学ぶコースです。  このコースは私が発案し、映画美学校との協議を経て誕生しました。小説や詩歌、エッセイ、評論などといった特定のジャンルではなく、それらの総体であり前提である「ことば」を学ぶ、いや、学び直すことを主旨として掲げた、ライタースクールや小説講座などとはまったく違う、一風変わった「学校」です。「基礎科」と「演習科」の二段階に分かれていて、この文章を綴っている2024年の5月現在、第三期演習科が進行中。秋から第四期がスタートすることになっています。  実は本講義のタイトル「ことばの再履修」は、今から二年前に「ことばの学校」のことを書いたエッセイの題名でした。以下、そこから引用します。  気づいたらことばを使えるようになっていた。この場合のことばというのはいわゆる母国語である今こうして書いている日本語のことだ。  ひとははじめてことばを発したときのこと、ことばを使えるようになったときのことを覚えていない。思い出せるのは、すでにある程度ことばを使えるようになって以後、誰かに教えられたり自分で勝手に学んだりして、ひとつひとつ新たなことばを、単語を、語彙を習得していく段階に入ってからのことで、それ以前の、固い言葉でいうなら「言語の習得過程」が如何にして開始されたのかということは、ぜんぜん思い出せないし、それは明らかに奇跡とも呼ばれるべき大いなる跳躍であったのに違いないにもかかわらず、そう考えられるのは常にジャンプした、跳べてしまった後なので、いったい自分がどうやったのかは皆目わからない。ただ身近な誰か、親とかに「君がはじめて発したことばは」とか「君はことばを覚えるのが早かった」などといわれて、そうだったのかと思うだけなのだ。  母国語ではない言語、外国語の場合はもちろん事情が違っていて、はじめからその言語を習得するつもりで学ぼうとするわけだが、その学習プロセスは母国語でやったのとはたぶんまったく違っている、というか違いを確かめようもなく、むしろ二番目(以降)の言語を習得するために大なり小なりの努力をすればするほど、母国語では意識せずして簡単にやれてしまったことが、謎に、奇跡に思えてくる。  わたしたちはたまたま母国語である日本語をいちから学び直すことはできない。国語の現代文とか、日本語を学ぶとか日本語を上手に使うなどという言い方は、すでに使えていることばをより広く深く、というようなことであって、その際の「広さ」や「深さ」の定義はまちまちであるが、しばしばそれは、なんらかの目的や用途に沿って技術や応用法を獲得するということであり、特定の条件下、或る状況において必要だったり便利だったりすることば使いを新たに可能にすることであったりする。  言語によって意味されたり表現されたりする何かがことばの向こう側にあって、重要なのはそちらの方であり、言語は、ことばは、いわば単なる道具に過ぎない。陶器を拵えるのには粘土が必要、というような。(中略)  自分がこれまでしてきて、今もしていることとは結局のところ何だろう? それは「言葉」で何かをする、ということだ。わたしは物書きである。いわば言葉のプロだ、などとは口が裂けても言いたくない。  確かに三十年以上、言葉で飯を食ってきたが、むしろプロフェッショナリズムには決然と背を向けてやってきた。わたしにとって物書きとは職業ではなく属性である。シンプルに言えば、他者の言葉を読むことに尽きせぬ魅力を感じ、自分の言葉を書くことにさまざまなよろこびを見出してきた/いるからこそ、自分は今も物書きをやっているのだ。  ここでの「言葉」を固い言葉でいうと「言語表現の可能性」ということになる。というわけで、わたしは「言語表現の学校」をやってみようと思い立った。柔らかい言葉でいえば「ことばの学校」である。(「ことばの再履修」)  本講義は今も継続中の「ことばの学校」と密接な関係を持っています。講義の内容そのままというわけではありませんが、同校の受講生以外にも、私が「ことばの学校」という試みでやりたいと思っていること、その根幹となる「ことば」の使用と表現にかんする幾つかの考え方をお伝えしようというのが、これから始まる「ことばの再履修」の目的のひとつです。  ちなみに先のエッセイは、こんな風に終わります。  まもなく「ことばの学校」第一期は終わり、すぐに第二期の募集が始まることになっている。一年間やってきて、とにかく気づきや学びが非常に多かった。わたし自身が「ことば」を再履修しているのだ。「言語表現」の活き活きとした可能性と多様性に直に触れられる日々だった。陶器を使うのでも眺めるのでもなく、そこに在る粘土の手触りを確かめるみたいな。(同)

 

 

自分にしか書けない文章を書く

 いま、ことばは、ありとあらゆるところに溢れています。私たちは、ことばを発さない日、ことばを使わない日、ことばを目にしない、耳にしない日は、まずほとんどないと言っていいでしょう。  ことばは道具です。でも、ただの道具ではない。道具であるだけでもありません。 ことばにはもっと多くの意味と意義、機能や価値、可能性があります。  ことばによる営みと試みは、私たちの世界を押し広げたり、それまで気づいていなかった重要なことに気づかさせてくれたりもします。ことばはただ単に、他人と関係したり誰かを説得したり何かを説明したり物事を円滑に運ぶためだけのものではありません。言語表現の芸術的な側面や文化としての次元は、明確な有効性や有用性を実証し得ていなかったとしても、思いがけないかたちで突然に、鮮やかな光彩をまといながら、私たちの前に立ち現れることがあります。  書くこと、読むこと、話すこと、語ること、綴ること、述べること、文章には、技術という要素もありますが、それだけではありません。「上手い文章」や「良い文章」が一通りしかなかったら、世の中の文章はぜんぶ同じになってしまいます。  ことばの使い方を学ぶこと、書くことを学ぶこと、言語表現を学ぶことの目的は、究極的には、自分が自分だからこそ書けることば、ある意味では自分にしか書けない文章を書けるようになることだと思います。それを個性や魅力と言ってもいいですが、私は必然性と呼びたい。書かれる必然性のあることば、この世界に生まれ出でる必然性を持った自分のことばを紡ぐこと。  では、そんなことばを書く、書けるには、どうすればいいのでしょうか?   それをこれから、少しじっくりと探っていきたいと思います。いちおう講義形式ですから、ある程度は段階的なステップを踏みながら進んでいくつもりですが、理念的な話と理論的な説明、具体例や思いつきのアイデアのようなものが渾然一体となった、あまり堅苦しくはないがきちんと中身の詰まった、ゼロから始められる「ことば」の学びの場にできたらと考えています。  ゼロから始められる……しかしすでに私たちは「日本語」を使えてしまっているわけで、だからこその「再履修」であるわけです。 そのためには、まず「日本語」を「外国語」のように考えてみる必要があります。

 

 

 

「文法」と「慣習」の外へ

 「美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている」  『失われた時を求めて』で知られるマルセル・プルーストの有名な言葉です。もちろん実際の外国語を礼賛しているわけではありません。プルーストはフランス語で書いた作家ですが、たとえば彼にとっての母国語であり使用言語である「フランス語」を、一種の「外国語」として捉えなおす、ということを述べているのです。  この言葉について、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが、次のように述べています。  作家は、プルーストの言うように、言語の内部に新しい言語を、いわば一つの外国語=異語を発明する。彼は、文法上あるいは統辞法上の新たな諸力を生み出すのである。彼は言語をその慣習的な轍の外へ引きずり出す。つまり、言語を錯乱させるのだ。のみならず、書くことの問題は、見ることと聴くことの問題と分かち得ないものである。なにしろ、言語の内部にある別の言語が創り出されるや、「非統辞法的」で「非文法的」な臨界へと近づき、あるいは自分自身の外と交感するようになるのは、言語の総体なのだから。(『批評と臨床』/守中高明訳)  ちょっと難解ですが、言わんとしていることはわかると思います。「文法上あるいは統辞法上の新たな諸力」と「言語をその慣習的な轍の外へ引きずり出す」というところがポイントです。  どんな言語にも制度的・歴史的に醸成された「文法」や「慣習」があります。プルースト=ドゥルーズは、それらの「外部」に出ることを推奨している。またドゥルーズは、そこから更に「書くことの問題は、見ることと聴くことの問題と分かち得ない」と主張しています。言語表現が視覚や聴覚と根本的に結びついているという考え方は画期的であり、と同時に、ごく普通に納得できるものです。

 

 

  これは、見えるものや聴こえるものを言語が描写する(表現できる)ということのみを意味しているのではありません。いうなれば、ことばが言語だけではなく、目や耳やそれ以外の感覚(五感? 六感? )の世界と「分かち得ない」のだと述べているのです。そして確かに、見ることや聴くことの問題は、母国語/外国語という区別の「外部」にあります。

 

 

 

「母国語の外」から「他人の目線」へ

 もう一つ、引用をしておきます。ドイツ在住で、日本語とドイツ語の両方で小説等を発表している作家、多和田葉子のエッセイからです。  或る言語で小説を書くということは、その言語が現在多くの人によって使われている姿をなるべく真似するということではない。同時代の人たちが美しいと感じている姿をなぞってみせるということでもない。むしろ、その言語の中に潜在しながらまだ誰も見たことのない姿を引き出して見せることの方が重要だろう。そのことによって言語表現の可能性と不可能性という問題に迫るためには、母語の外部に出ることが一つの有力な戦略になる。もちろん、外に出る方法はいろいろあり、外国語の中に入ってみるというのは、そのうちの一つの方法に過ぎない。(『エクソフォニー 母語の外に出る旅』)  プルースト=ドゥルーズは、母国語の内部に「一種の外国語」を生成させることの効用を主張したわけですが、多和田さんは使用言語の「まだ誰も見たことのない姿」を造り出すためには「母語の外部に出ること」が「一つの有力な戦略」だと述べている。  二言語を駆使して卓越した文学作品を発表してきた多和田さんなればこその発言と言えますが、むしろ私はここで、プルーストやドゥルーズや多和田葉子が言う「芸術」や「文学」の可能性の追求の術としての「母語の外に出る」から翻って(あるいは敷衍して)、もっと素朴に、使い慣れた「日本語」を、まるでこれから新しく学ぼうとする「外国語」であるかのように見つめなおしてみることを提案したいのです。  それは必ずしも高尚な「芸術」表現としての「文学」である必要はありません。シンプルに言えば、それは「自分のことば」を「他人の目線」で読んでみることです。  確かに実際に「他者のことば」である外国語を学ぶことも「自分のことば」に影響を与えます。たとえば英語で(もなんでもいいのですが)読んだり書いたりする習慣を続けていると、いつのまにか日本語の読み書きも変化していることに気づく場合があります。  しかし、ここで言っているのは、そういうこと(だけ)ではなくて、自分のことばを、これまでとは別の角度(? )から新たに発見する、というようなことです。  自分が書いた/書いている文章を、あたかも異国の言語で書かれた文章を読むように読んでみる、ということです。他者のことばを学んだり、他人が書いたことばを読む以前に、まず自分自身が持ち合わせていることばを、さしあたり日本語で書いた/書かれたことばを、ルーペで奇妙な生物を観察するように、天体望遠鏡で遠くの星を拡大するように、見つめ直してみること。そうすることで見えてくるのは、他ならぬ「自分のことば」の傾向性、言い換えればクセのようなものです。自分の「ことば」使いの「クセ」を知ることは、とても重要です。  上手い(とされている)文章、わかりやすい、伝わりやすい(ということになっている)文章をただ真似しただけでは「自分が自分だからこそ書けることば」を書けるようにはなりません。誰もが書けて現実に大量に書かれていることば、巷に溢れかえっているありきたりのことばの使い手のひとりになるだけです。  それを目指しているのなら別に構わないのですが、もしもあなたが他の誰でもない自分自身の「ことば」を獲得したいと思っているのなら、まずは「日本語」を「外国語」のように学びなおす必要があります。そしてそれはけっしてむつかしいことではありません。ある種の気づきやマインドセットの変更/更新によって、自分の「ことば」は変わり始めます。  それでは、始めていきましょう。

佐々木 敦

 

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