龍陵会戦 

(文春文庫 戦争文学三部作 2)

2003/3/7 古山 高麗雄 (著)

古山高麗雄戦争三部作第二作。
中国雲南省龍陵地区守備隊の攻防戦を中心に、
下級兵士の真実の声を静かに描いた書。菊池寛賞受賞!
 
==或る書評より
『断作戦』を読み終え、このシリーズ二作目『龍陵会戦』を読むことにした。 
 この作戦を作成したのは、ノモンハンで大失敗した辻政信陸軍大佐である。
 敵の兵力を無視した作戦は、ノモンハンのときを彷彿とさせるようである。
 著者が、この作戦のことを嘆いて書いていたところを少し長くなるが下の・・・・・内に転載したい。
 ・・・・・
 <前文略>このあいだの戦争(評者注:騰越陣地守備戦)でも、退却を戦術だと考えることのできないヤマトダマシイのために、死ななくて済んだかも知れない人がおびただしく死んだ。
 龍陵会戦の、彼我の兵員比は、辻政信は十五対一、岡崎第二師団長は、三十対一、と書いている。砲弾の量の比は、五十対一、ぐらい、あるいは、もっと懸隔があったかも知れない。これも私の、不正確な思い込みかも知れないが、私は、友軍が一発撃つと、五十倍も百倍ものお返しが来たように感じられた。
 友軍にも、一応、砲兵の協力はあったわけで、山砲が、三山攻撃も、四山攻撃も、四山攻撃も、支援している。私は、龍陵では、友軍の砲声と中国軍の砲声を区別して聞き分けることができなかった。すべて中国軍の砲声に聞こえた。<中文略> 
 いや、砲撃だけではなく、負けるに決まっている戦闘をなぜするんだ、と、もし、軍司令官や師団長に言えるものなら、言いたかった。<中文略>
 しかし、今もなお、十五対一で戦うことを勇気と結びつけ、壮烈だなどと思う人がいるとすれば、その人は、辻政信らと同様に異常である。でなければ、異常な者にしてやられているお人好である。どんなに強い相手とでも、戦わなければならない場合が、人には、なくはないだろう。しかし、あの戦争が、そうゆうものであったとは、私は思わない。あれが勝ち目のない戦いであったことぐらい、軍の偉方だってわからないはずはない。ならば、十五倍の敵、五十倍百倍の火力とわたり合える場所まで後退して迎撃するしかない。その態勢を作るのが戦術というものだろう。
 
もし、雲南やビルマにそういう場所がないなら、雲南、ビルマから撤退すべきだろう
 
拉孟、騰越の守備隊を最後の一人まで戦わせたのは、そうすることで、何かのために時間を稼いだとでもいうのだろうか。あるいは、両守備隊は、岡崎師団長が言ったような、何かのための〝餌〟のつもりだったのだろうか。惨死をを散華と言い、全滅を玉砕と言う。
そういう美化語を作ったのは誰だ。
だが、どう言い換えようと中身は変わらない。
とにかく、私たちにはどうしようもない。<後文略>(P352~353)
 ・・・・・
 このあと古山高麗雄氏は、今でも軍司令官や師団長に、このように言いたい、と述べ、
「なぜ、逃げることが恥としか考えないのだろうか」とも書いている。
 評者は、・・・・・内で語る古山高麗雄氏が、この戦いの愚かさをすべて心底から述べているように思ったのである。
 インパール作戦も惨憺たる状態で惨敗した後なのに、
なんの反省もなく、このような作戦を強行し、
一銭五厘で徴集された兵士が、偉方の一声で数えきれないほど戦死したのである。
 古山高麗雄氏の「戦争文学三部作」二作目『龍陵会戦』を、暗い気持ちになりながらなんとか読み終えたのです。

 <追記>
 著者が忘れ難い思い出などを、何度も繰り返し記述しているのも気にならないで読み進むことができた。
 『兵隊蟻が歩いた』で読んだことも重なって思い出してしまったからかも知れないが。

 

 

 

 

 

 

 

 

犠牲3万人のインパール作戦から80年、激戦地コヒマに慰霊碑…敗走の道は「白骨街道」(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース

 

犠牲3万人のインパール作戦から80年、激戦地コヒマに慰霊碑…敗走の道は「白骨街道」

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読売新聞オンライン

(写真:読売新聞)

 【コヒマ(インド北東部)=浅野友美】第2次世界大戦中に約3万人が犠牲になったとされる旧日本軍のインパール作戦が始まってから今年で80年となった。作戦の激戦地となったインド北東部コヒマで8日、旧日本軍兵士を弔う慰霊碑の落成式が行われ、地元ナガランド州や在印日本大使館の関係者らが花を手向けた。

  【動画】旧日本兵の遺留品が数多く残されている「白骨街道」 (2015年撮影)

8日、インド北東部コヒマで完成した旧日本軍兵士の慰霊碑=浅野友美撮影

 作戦は1944年3月に始まった。ビルマ(現ミャンマー)から険しい山を越え、連合軍の拠点だった英領インド北東部インパールを目指した。インパールの北約100キロに位置するコヒマは、インパールに向けた連合軍の補給拠点でもあり、旧日本軍が一時占領した。

 しかし、弾薬や食料の補給を軽視したため、連合軍の反撃が強まり、同年7月に作戦中止に追い込まれた。敗走した道には多数の遺体が残され、「白骨街道」と呼ばれた。

 

 コヒマには犠牲になった連合軍兵士の遺骨が眠る墓地がある一方、

日本人兵士の追悼施設がなかった。

数年前に広島市の原爆死没者慰霊碑を訪れたネイフィウ・リオ州首相が「日本人を悼む碑をコヒマにもつくりたい」と提案し、大使館も協力して実現した。慰霊碑には「鎮魂」の文字が刻まれ、リオ氏は式典で「我々は平和を築く取り組みを続ける」と決意を述べた。

 式典には、インド在住の会社員鈴木誠一さん(53)が参列した。祖母の兄・塚田善四郎さんがコヒマで戦ったが、

2010年に90歳で亡くなるまで戦時中の体験をほとんど話さなかったという。

鈴木さんは今回初めてコヒマを訪れ、式典前夜に暗闇の町を歩きながら命がけで戦った塚田さんへの思いをはせた。

 式典後、「苦しい思いをした人々の気持ちを語り継ぐのが我々の務めだと思う。慰霊碑はそのきっかけを与えてくれた」と語った。

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