「瑩山」禅師の「日本天台宗、達磨宗派」の

梵我一如」の悟りと、

「義雲」の「中国禅」「老荘思想」と、

激突した。

 

道元は「原始仏教」だから、

両方共に「嗣書」を授けなかった!

 

義尹」禅師には、

1年間の修業で、

1242年に「嗣書=血脈図」を授けた

そして、

如浄禅師の17回忌に、道元の代理として、

中国・宋に派遣している!

 

 

道元禅〈第1巻〉伝と人物 (1960年)

 

P81から

瑩山)禅師の若い時は、無類の癇癪持ちで、

宝慶寺などでは、

物凄い癇癪を起し、

暴力に及ぼうとしたこともあったが、・・・

 

 

 

 

日本の禅語録〈第5巻〉

瑩山 1978/4/1

 

 

永平寺5世・義雲禅師 - 心の指針となった永平寺の禅師 (jimdofree.com)

 

 

建長5年(1253)12月

 義雲、京都に生る。

 

 義雲和尚略傳

  遠孫寶慶住持比丘 龍堂撰

 師の諱は義雲。建長五年癸丑の朧月を以て、洛陽縉紳の家に産る。

幼きより英竒、常の童に異なり、始めて洛の教院に投じて薙染す。

専ら華嚴法華の疏を習う。

 

【搢紳・縉紳-しんしん】笏(しゃく)を紳(おおおび)に搢(はさ)む意から、官位が高く、身分のある人。

 

(参考)

建長5年(1253)8月28日(陰暦)(陽暦9月29日)

 道元禅師、京都高辻西洞院覺念の邸に示寂す。 

弘長元年(1261)
 寂円、永平寺を去り、越前大野木本野銀椀峯に入り、後、宝慶寺開山となる。

 

出家得度・年月不詳

 上記「義雲和尚略傳」によれば『始めて洛の教院に投じて薙染す。専ら華嚴法華の疏を習う。』とあるので、京都の教院(比叡山か?)にて出家得度し、華嚴法華を学んでいたものと推察する。

 

建治2年(1276)是歳 24歳
 義雲、教学を捨てて、宝慶寺の寂円を尋ねる。

 

「発願文」 「義雲和尚略傳」より
 伏して惟んみれば、生死輪傳の閒、人閒に生まれること甚だ難し、佛法流布の代、正法に遇うこと最も稀なり、浮木喩えに非ず、曇華爭ひ、然して適ま正嫡之室に投ず、直に無上の道を修し、未曾の聞を聞き、未曾の行を行く、豈に歓喜せざらんや、是れ小縁に非ず、正に是れ大因縁なり、乃至常啼東尋、善財南方、古尚斯の如し、今容易なる可き哉、之れを観て断臂難に非ず、之れを念じて燒身何ぞ辞せん、仰ぎ願わくは、此の誓約朽ちず、無盡未来際に至らんことを。

 

弘安2年(1279)5月17日 27歳
 義雲、越前中浜新善光寺に「正法眼藏虚空」一巻を書写す。


同年5月20日
 義雲、越前中浜新善光寺に「正法眼藏安居」一巻を書写す。


同年5月21日
 義雲、越前中浜新善光寺に「正法眼藏帰依三寶」一巻を書写す。

 

永仁3年(1295)4月20日 43歳
 義雲寂円に入室嗣法す。

 

正安元年(1299)9月13日
 寂円、九十一歳にて遷化す。(法嗣は義雲一人)

 

正安元年(1299)10月18日 47歳

 伊自良氏より寶慶寺新寺領を沙弥智円ほか一族四名連署で寄進される。

 

正安元年(1299)11月21日 47歳
 義雲、越前宝慶寺に開堂式を挙ぐ。

 

「義雲和尚語録」より
 師、正安元年巳亥十一月二十一日、當山に就いて開堂す。拈香祝聖罷。
上堂して云く、百川、大海に向かって到るは、到り了りて異名無し。一心、萬境に従って轉ず、轉じて後、本位に住す。鏡を將て像を鑄れば鑑照して得ず。像を將て鏡を鑄れば光明自ずから新なり。住、閫外出ずして、遍身の手を招いて、往来に接し、賓、途中に受用して、通身の眼を活して、古今を鑑す。且く道へ大衆、賓主、相い對するが如くんば、什麼の手眼、還て會すや麼。覿面、呈し難し向上の機。家風萬古、人の為めに施す。
 

同年11月23日
 義雲、越前宝慶寺に於いて初めて道元禅師の「寶慶記」を看る。

 

  寶慶記(東川寺蔵本)
  寶慶記(東川寺蔵本)

 正安元年巳亥十一月二十三日、越州大野の寶慶寺に於て、初て之を拝見す。開山の存日之を許すと雖も、今に延遅す、今正に是れ時なり。而今(いま)、聖王髻中の明珠を得たり、大幸中の大幸なり。懽喜千萬、感涙襟を濕すのみ。 義雲 

(宝慶記巻末より)

 

  寶慶記・巻末(東川寺蔵本)
  寶慶記・巻末(東川寺蔵本)

 

延慶2年(1309)9月14日
 徹通義介、遷化す。

 

義雲、永平寺住職辞退。

 永平寺住職之事
 貴命に預り候、面目極まり無しと雖も、且つ食、被知し如く、病躰候之上、一方ならず治し難し、計い會之閒、仰せに應ぜざりし候事、殊に恐れ入り候、殷勤之仰せ、畏れ入り候と雖も、持病常に相い催し打ち臥する事多く候條、力及ばず、御免蒙る可く候、恐惶謹言。
 九月十八日
    比丘義雲(華押)
進上三條殿
 「義雲和尚語録」より

 

正和3年(1314)12月2日 62歳
 宝慶寺義雲、永平寺に住す。(宝慶寺後席を法嗣曇希に譲る。)

 

 吉祥山永平禪寺語録  侍者曇希編

 師、正和三年甲寅十二月初二日入院。

山門、金雞、暁を報ず。解脱門開く、依然として歩を引けば脚下風雷。

佛殿、世尊に密語有り、長舌、唇を離れず、迦葉、覆藏せず。家國、茲れ從より富めり。安樂兠率、左方右邊。

據室、一丈の水、一丈の波、中に於いて能く巴歌をを唱ふ。毘耶の小神通を勘破し了れり。。許くの如して閑坐、什麼にか在る。縦横疑議を容れず、亦た是れ葛藤舊窠。

陞座、祝聖罷て、又、香を拈じて云く。

此の香、佛佛の鼻孔を穿鑿して、混沌未分の霊熏を通じ、、包容祖祖の髓皮を包容して、全兒孫繁茂の根帯を全うす、爐中に爇向して、薦福開山圓和尚大禪師に供養し、用いて法乳の恩に酬いん。 (嗣承香)

 「義雲和尚語録」より

 

 永平入院小参

 法は法に随つて行じ、法幢は處に隨つて建つ。一出六出、薬山の師子。異類同類、青原の麒麟。自家の鑰子を拈堤して、向上の玄関を打開す。恁麼の時に當つて祖宗の爐鞴、魔を錬り佛を錬る。鑊湯消融、本分の鍵(鉗)鎚。自を鍛ひ、他を鍛て、面目儼爾。既に恁麼の手段を得て、作麼生か的當ならん。道ふこと莫れ鯤鯨、羽翼なしと。今日親しく鳥道より回る。復た擧す、薬山因に僧問ふ、祖師未だ此の土に到らず、此の土に祖師の意有りや、他た否や。山曰く有り。僧曰く、已に祖師意あらば又來つて什麼にか作さん。山云く、有るが爲めの所以に來る。師の頌に曰く、劫前の消息誰人にか属す。五葉の聯芳芬馥として新なり。少林眞の妙訣を識らんと要せば、一聲の鐵笛陽春を奏す。(「義雲和尚語録・小参」より)

 

 

 この頃の永平寺は堂塔伽藍も人心も荒廃の事態に直面していた。
 義雲、宝慶寺の什物をもって永平寺を整備する。
 さらに六十巻本「正法眼蔵」編集する。(義雲本)
 (永平寺史・上巻)307頁より

 

 

文保2年(1318)是歳 66歳
 円月(中巖)、永平寺に義雲に参ず。

 

元応元年(1319)是春 
 円月(中巖)、永平寺を辞して鎌倉に帰る。

 

正中元年(1324)是歳 72歳
 宗可、元の淨慈寺如芝(霊石)、及び霊隠寺淳朋(獨孤)より義雲の壽像に賛を賜る。

 

  泰定改元歳在甲子春

 霊隠山獨孤叟淳朋、賛。

 淨慈八十有三歳霊石叟如芝、賛。

 

嘉暦元年(1326)4月16日 74歳

   義雲、永平寺内で、虚空に鐘聲鳴るを聴く。

 

「永平高祖行状建撕記・永平中興和尚之御事」には『中興和尚永平寺に御住の中ち、虚空に鐘聲鳴る、此れ嘉暦二年四月十六日なり』とあるが、『鐘聲鳴る』を聞いて『梵鐘鋳造の化』を興しているので「嘉暦元年」の誤りと推察する。

 

嘉暦元年(1326)孟夏 74歳
 義雲、永平寺檀越波多野通貞及び巨宏、韶林等の助縁を得て梵鐘鋳造の化を発す。

 

嘉暦2年(1327)7月

 

 泰定丁卯(1327)秋七月

 宗可侍者、天童南谷庵に永平初祖(道元禅師)の牌を祖師堂に立て換え、その支證を天童住持楚俊が書し渡す。

 

 泰定丁卯秋七月望、大白閑房老僧楚俊書。
  乾坤を坐断し。全身を獨露す。喚び本師と作す。和尚當甚。
      冬瓜茄瓠更に好く笑い。金剛倒上梅花樹。

    徒弟智琛乞語。 (此正本は賀州大乘寺にあり。)

 

嘉暦2年(1327)8月24日 75歳
 義雲、梵鐘鋳造の功を遂ぐ。

 

(梵鐘銘の末尾)
 嘉暦二年歳次丁卯八月二十四日鋳造
  鋳匠 沙弥 蓮念
  化主 巨宏 知蔵
     韶林 維那
 本寺第四世檀那雲州左金吾藤原朝臣通貞
 住持 第五代 義雲 銘記

嘉暦4年(1329)中夏 77歳
 義雲、「正法眼藏」六十巻の品目頌並びに序を撰す。

 

 永平正法眼蔵品目頌并に序

 正法眼蔵、密伝密付。古と今と、嫡仏嫡祖。永平元祖入宋し五葉の根蔕を穿鑿し、帰朝して能く一天の蔭涼と為る。忒煞た婆心、和字を以てし漢の語を柔(にんえ)る。竒玅の善巧、人をして文言に累はらざら令むに、石の玉を含むが如く、地の山を擎るに似たり。聊か、卑語を綴て、其の大旨を述ぶのみ。後昆此の八字を打開せず、玅心源未だ通徹せずば、一大蔵教、少林の玅訣、夢にもや、未だ見在せざること矣。

 嘉暦四年中夏、曾孫義雲和南拝書  (「拾遺義雲語録」より)

 

元弘元年・元徳3年(1331)9月13日 79歳
 義雲、寂圓三十三回忌に当たり、寶慶寺齋に赴き上堂す。

 

 當山初祖三十三回忌、陞座。
(師此の時永平に在り、齋に當山に赴く。)
香を拈じて云く、此の一瓣香、胸襟従り拈出す。恩に酬いんと欲せば、恩還つて怨の如し、怨に報ぜんと欲せば、怨も亦恩に似たり。恩を越え怨を越ふ、是れ一本分。上み、日月星辰の爲に光彩と作り、下も、萬木百艸の爲め霊根と作る。爐中に爇向して、先師當山初祖に供獻して、用つて、法乳の恩に酬ふ。
 座に就いて乃ち云く、萬機休罷、一物長なへに霊なり。太虚寂爾、霹靂轟轟。未審し先師平生、是れ甚麼の心行ぞ。吉祥孤雲嶺の風月を、薦福深岳林の巖扉を排びらか使む。此の風、西来三周の棹に随つて満ち、此の月、南海一葦の船を逐て来る。正恁麼の時、去来の路に渉らず、阿(た)誰か敢て拾遺せん。
 擧す、先師曾て永平に在りし時、二祖に問うて云く、如何なるか是れ師子吼の一音。祖曰く、更に外に出でず。師云く、甚の爲か出でざる。祖曰く、百獣脳裂す。師云く、恁麼ならば太だ益無きに似たり。祖曰く、一人も恩を承けざるなし。師云く、某甲會得す。百獣皆な師子吼を作す。祖曰く、如何が恁麼に會す。師云く、萬曲是れ一聲。祖印して曰く、汝ち能く観音入理の門に達す。師、作禮拂袖して嘯き去る。
 頌に云く、獅子吼する時、衆獣喪す。死中に活を得て却つて和同す。一聲奏し出す新豊の曲。觀自在門此れ従り通ず。
 上堂、心心異心無し、一心一切法、念念異念に非らず、一念是れ萬年。
  (「義雲和尚語録・寶慶禪寺語録」より)

 

元弘元年・元徳3年(1331)是歳 79歳
 義雲、宗可の持ち帰った画像に自賛す。

 

 日本元徳辛未永平禪寺五世義雲自賛
 體曾て扶桑國を離れず、影普く大宗朝を歴遊す、二老美賛□衝天の氣を増し、一霊の宛爾□侘の功を假りず、汝快に携え來る無孔の笛、今に至り一調して新豊を調す。

 

元弘3年・正慶2年(1333)5月4日 81歳
 義雲、雲居道膺の像に賛を撰す。(宝慶寺蔵画像賛)

 

 雲居膺和尚賛 (「拾遺義雲和尚語録」より)

 郁芳たり鷲嶺拈華の瑞。端的新豊珍曲の吟。河を渡つて水波の曽ち混らはざることを會し。菴を焼きて一法の□(匃月)襟に棤く毋し。獨座年を経て天供更に日の欠くる無し。旨を得て以後而かも通眼窮へども針を容れず。性潔うして碧潭の秋月を蔑如し。□(月郤)尖として盡地の黄金を蹈断す。知見倶に忘滅して命脈今に連なる。

 

元弘3年・正慶2年(1333)9月27日 81歳
 義雲、「佛祖正傳菩薩戒作法」を曇希に授ける。

 

元弘3年・正慶2年(1333)9月27日 81歳
 義雲、永平寺を曇希(永平六世)に譲り、永平寺を退董す。

 

元弘3年・正慶2年(1333)10月12日
 永平寺義雲、遷化す。世壽八十一歳。

 

 「義雲和尚語録」より

 師、正慶二年癸酉十月十二日辞世の頌に曰く

教を毀り禪を謗す。八十一年。天崩れ地裂して。 火裡の泉に没す。

 

遺偈 毀教謗禪。八十一年。天崩地裂。没火裡泉。

 

『全身を吉祥山に塔す。號して霊梅と曰ふ。』(霊梅塔)

 

 

この後、永平寺住職は代々義雲禅師の法孫、寂円派によって受け継がれることになる。