「あの事件をやったのはね、兄さんかもしれない」私の祖父は“戦後史最大のミステリー”下山事件の実行犯なのか?〈衝撃的な大叔母の証言〉(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

「あの事件をやったのはね、兄さんかもしれない」私の祖父は“戦後史最大のミステリー”下山事件の実行犯なのか?〈衝撃的な大叔母の証言〉

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文春オンライン

〈線路上に人間の死体らしき肉塊が散乱、前日に失踪した下山総裁が…「おまえのおじいさん、下山事件に関係してたんだよ」〉 から続く 

 

【画像】轢死体で発見された下山定則総裁の姿

 

〈“戦後史最大のミステリー”として、いまなお多くの謎につつまれる占領期最大の未解決事件「下山事件」〉。今年3月に「NHKスペシャル」で取り上げられ、あらためて話題を呼んだ。「あの事件をやったのはね、もしかしたら、兄さんかもしれない」。祖父についての親族の証言を契機に「下山事件」に新しい光を当てた作家・柴田哲孝氏の著書『 下山事件 最後の証言 完全版 』(祥伝社文庫)より一部を抜粋して紹介する。

 

(全2回の2回目/ 前編から続く ) ◆ ◆ ◆

祖父の後ろ姿を追っていた幼少期の記憶

 かすかな記憶がある。  私は泣きながら、必死に祖父の後ろ姿を追っていた。  季節は、初冬だった。まだ生まれたばかりの弟が母の背に負ぶわれていた頃だから、私はおそらく3歳にはなっていなかったと思う。午前中の穏やかな日射しが、街並を淡い色に染めていたことを覚えている。  祖父の背中は遥か遠くにあった。私は、何かを叫んでいた。祖父の名を呼んでいたのかもしれない。だがその声は祖父の耳には届かず、大人と子供の足の違いもあって、私と祖父の距離は少しずつ遠ざかっていった。

 

  やがて大通りに出ると、祖父は通りかかったタクシーを拾い、その姿が車中に消えて走り去った。私はその場に一人取り残された。すでに家からは遠く、見憶えのない街の風景の中で、私はただ祖父の名を呼びながら泣き続けていた。その姿を出入りの御用聞きが見つけ、家に連れ帰ってくれたのは、それから小一時間も経ってからだった。家では母や祖母がいなくなった私を探し、大騒ぎになっていた。

出掛けようとする祖父をいつも邪魔していた

※写真はイメージ ©Wakko/イメージマート

 当時、祖父は吉祥寺の自宅を事務所にして、鉄道模型や釣り道具を扱う小さな貿易会社を経営していた。日のあたる居間の一角に置かれたデスクが、祖父の仕事場だった。私はいつも、その周囲で遊んでいた。祖父の打つタイプライターの軽やかな音が、いまも耳の奥に残っている。  祖父が商談などのために家を空けるのは、多くてもせいぜい週に一度か二度のことだったと思う。だがそのたびに私は何かしらの騒動を起こし、家人の手を焼かせた。祖父が出掛けるのを見付ければ、私は必ずその足にしがみついて邪魔をした。外出用のアメリカ製の靴を隠してしまったこともある。以来、祖父は、私に見つからないように勝手口から忍び足で出掛けるようになった。おそらくその日、私は窓から外を歩く祖父の姿を見つけ、母や祖母が目を離した隙にその後を追ったのだろう。

 

 

 

 

 あの頃の私にとって、祖父は自分の世界の大半を占める大きな存在だった。それこそ朝から晩まで、片時も離れずに祖父を独占していなければ気がすまなかった。一種の守護神のようなものであったのかもしれない。時には仕事の邪魔をして膝の上で戯れ、腕の中で眠り、祖父が歩けば親鶏に従う雛のようにその後についてまわった。祖父はそんな私を、いつも優しい眼差しで見守ってくれた。  私が小学生になっても、祖父は男として最も身近な手本であり、良き遊び相手だった。野球、釣り、竹馬、将棋といった当時の男の子の嗜みは、すべて祖父が教えてくれた記憶がある。

祖父・柴田宏 私の英雄「ジイ君」

 私と遊ぶ時の祖父は、まるで少年のようだった。近所の遊び仲間が集まって野球が始まると、よく祖父が飛び入りで参加した。祖父は、必ずピッチャーをやらされた。その剛速球とカーブは有名で、少年たちを相手に三振の山を築いた。空地の先の家のガラスを割るほどの大きなホームランを打ったこともある。祖父は、近所の少年たちの間でも英雄だった。

 

 

  柴田宏。それが私の祖父の名だ。宏と書いて、ユタカと読む。私や弟、近所の少年たちは、その祖父を「ジイ君」と呼んでいた。  祖父は長身だった。痩軀(そうく)だが肩幅が広く、大きな背中をしていた。私はその背中が好きだった。いま振り返ると、私は常に祖父の背中を見つめ、その後ろ姿を追うことによって成長してきたのではないかと思うことがある。もし私が祖父の存在に対して違和感を覚えることがあるとすれば、やがては祖父にも“死”という絶対的な瞬間が訪れるという現実だけだった。

祖父の頑固さが最後には命取りとなった

 だが、その時は意外に早くやってきた。ある日、たまたま私と中野の街を歩いている時に、突然祖父が腹痛を訴え、その場に崩れるように倒れた。近くの病院に担ぎ込まれ、手術を受けた。患部を開いてみると、手の施しようがないほどの末期の癌であることがわかった。  祖父は自分の体のことを知っていたのではないかと思う。虫歯を自分で抜いてしまうほどの医者嫌いの人だった。おそらく、倒れる何ヵ月も以前から耐え難いほどの苦痛があったはずだ。家族に心配をかけまいとしたのか。それとも自分の体力を過信していたのか。私は少年時代、よく祖父の戦時中の武勇伝を聞かされて育った。祖父が戦地で度重なる窮地を生きながらえたのも精神力であるとするならば、その頑固さが最後には命取りとなった。

 

  昭和45年(1970)7月1日、1年以上もの闘病生活の末に祖父は息を引き取った。享年69。特に祖父が最後の数ヵ月に見せた凄まじいほどの生に対する執念は、私に対して「男とはいかに戦うべきか」を無言のうちに教えようとしていたかのようだった。

 

 

 

 

 まだ14歳になる直前の多感な年頃だった私にとって、祖父の死は単なる肉親の死という枠では語りつくせない意味を含んでいた。私は生涯、祖父の死の瞬間を忘れないだろう。それは壮絶なまでの価値観の消滅であり、同時に私が“少年”という輝かしくも平穏な時代に訣別した瞬間でもあった。

「もしかしたら、兄さんかもしれない……」

 以来、毎年夏になると、我が家では祖父の法要が恒例となった。祖父は柴田家の9代目の当主であり、7人兄弟の長兄でもあった。節目の回忌の折には横浜の菩提寺に親類縁者が数十人集まったこともある。  平成3年(1991年)7月、その年には祖父の23回忌にあたる法要があった。この時は私の家族の他に祖父の末の妹の飯島夫妻などが参加しただけのごく身内の法要で、その後、中華街に出て馴染みの店でささやかな食事会が行なわれた。  その席で、祖父の思い出話が進むうちに、酒の勢いも手伝ってか突然、大叔母の飯島寿恵子(すえこ)が奇妙なことを口走り始めた。

 

 

 「宏兄さんは、優しい人だったよね。私には、父親みたいな人だったし……。でもね、時々私、思うことがあるのよ。本当は兄さんほど恐ろしい人は、いないんじゃないかって……」  私は箸を持つ手を止めた。大叔母が何を言わんとしているのか、最初は見当もつかなかった。周囲では私と寿恵子の様子に気付かずに、話がはずんでいる。 「いったい、どうしたのさ。急に……」  私はあえて軽口をたたくように訊いた。だがその時の寿恵子は、尋常な様子ではなかった。目には涙が溜まり、手がかすかに震えていた。

 

 「あんた、下山事件て聞いたことあるだろう。

あれは自殺だとかなんとかいろいろ言われてるけどね。

本当は、殺されたんだよ……

 

 

  だが当時の私は、「下山事件」に関してほとんど知識を持っていなかった。昭和24年夏に初代国鉄総裁下山定則が三越本店で行方を絶ち、翌未明に五反野の線路上で轢死体で発見されたこと。自他殺両方の説があるが、事件は事実上迷宮入りしていること。私の下山事件の知識はその程度のものでしかなかった。

 

 

 「まあ、一応は知ってるよ。それがどうかしたの?」  私は平静を装っていた。だが、次に寿恵子が何を言おうとしているのか、漠然と予想していたような気もする。

 

 「あの事件をやったのはね、

もしかしたら、兄さんかもしれない……

  その一言がすべての発端だった。

柴田 哲孝

 

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