義介禅師が中心軸!
「日本天台宗、達摩・派」の、初祖「大日・能忍」禅師は、
その名前から、自分は「大日如来・釈迦牟尼仏」である、を主張している!
「仏の三身、法身・報身・化身」の内、
「真理そのもの法身仏=大日如来、修行で悟った報身仏=釈迦牟尼仏」
と、両方ともに、俺と一体だと、主張する!
その迫力は、凄かったであろう。
「義介」禅師は、
1241年(22歳)春から、1253年(34歳)まで
道元の下で、修行するが、
「嗣書=血脈図」を授からなかった。
他方、
道元傘下から去った日本達摩宗の「懐鑑」禅師からは、
1251年(32歳)春、「嗣書」を授かり「嗣法」した。
だから、
義介の直弟子の、太祖「瑩山」禅師が、
「日本達摩宗」、つまり、
「日本天台宗、達摩宗・派」の「法系」と成り、
「天台密教、梵我一如に至る坐禅で、悟った」のは当然!
そして、
それを正面から否定する
道元の「原始仏教=正伝の仏法」の方を、封印して、
「自分の法源」として、
中国では無名の「如浄」禅師を「高祖」に据えた。
同時に、
道元を「如浄から、そっくり真似て伝えただけの人物」と
役目を限定して、透明化して、消し去った。
この結果、
「道元和尚の教え=原始仏教=正伝の仏法」は、
全く、日本仏教に影響を与えなかった。
〇 〇 〇
「中国天台宗」の「五時教判」では、
「最もレベルの低い教え」とされ「劣った人々が対象」とされた。
「道元」和尚は、1242年前後に、
朝廷に『護国・正法義』を奏聞したが、
日本天台宗の学者、「佐」の法師に、
「小乗仏教」である
と、正確に判定されて、却下された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徹通義介(1219年2月18日- 1309年10月18日)
越前国出身の鎌倉時代中期の曹洞宗の僧。
永平寺3世、大乗寺開山。
地元の藤原氏(富樫氏とされる)に生まれ、
13歳の時に地元の波著寺にて日本達磨宗の懐鑑に就いて出家、
19歳の時に比叡山に登って授戒した。
1241年、春、懐鑑と共に山城国深草興聖寺の道元の下に参じた。
以後道元に師事し、永平寺で典座・監寺などの職を務めた。
道元の没後は孤雲懐奘に師事し、途中、
1259年に入宋し、臨済宗の諸寺院にて各種の祈祷や清規を学んだ。
帰国し、永平寺の規則や儀式を「直輸入した新方式」に大胆に変更した。
その後、1267年に懐奘の後を継いで永平寺第三代となるが、
自分の属する日本達磨宗と
もともとの曹洞宗系との内部対立(三代相論)を収めきれず、
1272年に辞任した。
麓に庵を建てて老母と共に隠居。後は再び懐奘が就任した。
懐奘の没後、
1293年に永平寺を出て加賀国に移り、
古寺大乗寺を白山天台宗から禅寺に改めてその開山となった。
弟子には後に曹洞宗発展の基礎を築いた太祖瑩山紹瑾がいる。