太平洋戦争の敗因は「指揮統帥文化」にあり!――軍事史研究の第一人者が新たな視座から解き明かす、日本陸海軍必敗の理由(新潮社 フォーサイト) - Yahoo!ニュース

 

太平洋戦争の敗因は「指揮統帥文化」にあり!――軍事史研究の第一人者が新たな視座から解き明かす、日本陸海軍必敗の理由

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第一次世界大戦は日本陸海軍将校を絶望に陥れた

 21世紀の戦争においても、実戦の指揮を執るのは各軍の指揮官である。当然彼らは各国軍事組織に所属し、概ね士官学校の出身者だろう。とすれば、そこには太平洋戦争と通底する問題が、生じないとは言い切れない。2020年の新書大賞を受賞した『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』の著者・大木毅氏は、最新刊『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)の終章「昭和陸海軍のコマンド・カルチャー:一試論として」において、日米英12人の指揮官参謀の戦歴から、特に日本軍人に顕著だった、ひとつの芳しからざる特徴を指摘する。以下、同書より一部抜粋・再構成してお届けする。 ***

指揮統帥の文化とは

 昭和の日本陸海軍の指揮統帥には、一定の特徴、それも芳しからざる特徴がはっきりとみられる。  戦略における政治との相互作用への配慮の乏しさ、硬直したドクトリンへの固執、作戦要素の偏重(当然、兵站や情報といった他のファクターの軽視につながる)、即興性・柔軟性の欠如、不適切な人事……。  歴史家ムートは、国際政治学を専攻するハーヴァード大学教授アラステア・I・ジョンストンの「文化とは、個人もしくは集団の思考に一定程度の規則性を課すもので、共通の決定ルール、処方箋、標準作業手順、決定のルーティーンである」との定義、さらに「文化が行動に作用する場合、それは選択される行動に制限をつけること、そして、その文化に属する者が相互の交流から何を習得するかに影響を与えることによってなされる」との指摘を引き、軍隊もその例外ではないとの問題設定から、第二次世界大戦の米独将校の「指揮統帥文化(コマンド・カルチャー)」を討究した。  仮にこうした分析枠組みを援用するならば、こうした昭和陸海軍の宿痾はまさしく、そのコマンド・カルチャーの帰結であったとみなすことができる。では、多数の問題点をはらんだ日本的指揮統帥の文化は、いかなる種子から芽を吹き、根を下ろしていったのか。

 

 

 

形骸化・官僚化する軍隊

 軍隊が、軍事的合理性を敵と競い合い、戦争に勝つことを目的とする特殊な性格を持つとはいえ、本質的には官僚組織であることは論を俟たない。その色彩は、平時にはより濃厚となり、軍隊の弱体化をもたらす。脅威なき平時においてはなおさらである。  近年のドイツ連邦国防軍(ブンデスヴェーア)などは、その典型例といえよう。冷戦のさなかには、NATO(北大西洋条約機構)諸国の軍隊中でも精強を謳われ、米軍が一目置くほどの存在であったのが、ソ連と東欧社会主義体制が崩壊し、四囲に脅威がない状態になってから(もっとも、それは近代以降のドイツにとって初めての経験だった)わずか四半世紀ほどで、質量ともに戦力の低下を来し、徹底的な再建の必要が叫ばれるようになってしまったのだ。  おそらくは、第一次世界大戦後の日本陸海軍もそうした状態にあった。中国は辛亥革命後の混乱なお収まらず、ロシア帝国は革命によって滅びたから、北の脅威は消えた。また、海上の仮想敵であるイギリスやアメリカとは協調体制をきずくことに成功している。  日本は、幕末以来ほぼ半世紀を経て、ようやく外国の脅威から解放されたのであった。  戦前期日本の戦略ドクトリンである「帝国国防方針」をみても、大正12(1923)年の改定で、アメリカを第一の想定敵国として、ロシアおよび中国がそれにつぐと決めたものの、明治40(1907)年、日露再戦の可能性を念頭に置いて作成された際、あるいは戦争の可能性がより現実的になってきた昭和11(1936)年の改定時ほどの切迫感はない。軍隊という官僚組織の存在理由を主張するための仮想敵設定とまでいえば、酷な評価ということになろうが、そうした側面を全否定することもできまい。  いずれにせよ、かような戦略環境のなかで、つかの間の安定を享受することはしばしば、戦いに勝つことを至上命題とする暴力装置という軍隊の理念型からの逸脱、さらには、前例主義や硬直した思考など、官僚組織としての諸側面の肥大につながる。昭和陸海軍のコマンド・カルチャー頽廃の起点の一つは、この時期にあったように思われる。

 

 

 

総力戦から眼をそむけた

艦隊決戦というドグマの犠牲となった「大和」と「武蔵」

 もう一点、日本軍のコマンド・カルチャーの停滞や退化を間接的に醸成した要因として、戦争の性格の変化が挙げられよう。すでに日露戦争において、勝敗は、戦場での激突ではなく、国力や生産力の競争、国民の継戦意志保持の程度によって定まるという傾向がみられはじめていたが、第一次世界大戦は、その潮流の向かう先を残酷なまでにあきらかにした。  中立国スイスの国境から英仏海峡まではりめぐらされた野戦築城や、それを破壊せんとして、ときには数週間におよぶ砲撃が加えられるといった第一次世界大戦の様相は、もはや戦争は、軍隊ではなく、国民対国民の闘争であり、そこで決定的になるのは、将兵の士気や練度、作戦や戦術よりも、生産力の多寡であることを如実に示していたのである。  その第一次世界大戦の実情や教訓を研究した日本陸海軍の将校の多くは、絶望に襲われたにちがいない。なぜなら、第一次世界大戦の戦勝国として、米英仏伊とならぶ「五大国(ビッグ・ファイヴ)」の一つになりおおせたとはいえ、日本の国力はとうてい諸列強が繰り広げたような「総力戦」に耐えられるものではなかったし、また、近い将来にそのような態勢を構築できる見込みもなかったからだ。  かくのごとき事実を突きつけられた陸海軍の将校は、さまざまな対応をみせた。この問題に思想史研究の視点からアプローチした片山杜秀の言葉を借りれば、「本気で『持たざる国』を『持てる国』にしようと夢想した者もありました。精神力という『無形戦力』で『持たざる国』に相応しい金のかからない下駄を履かせ、何とかごまかして切り抜けようと思い詰めた者も居ました」ということになる(片山杜秀『未完のファシズム』)。  しかし、陸海軍首脳部のほとんどは、総力戦の要求に正面から向かい合うことを避け、日本の国力でも可能な戦略・作戦・戦術を正解として設定し、将校たちに叩き込んだ。日本軍の第一次世界大戦史研究を検討すれば、その過程が浮かび上がってくる。  なるほど、陸海軍は、厖大な予算と人員を投じ、英独仏露をはじめとする列強の公刊戦史の翻訳刊行、高級将校育成・研究機関である陸軍大学校や海軍大学校、軍の各学校などで研究を実行させるなど、第一次世界大戦から学ぶ努力を怠りはしなかった。  だが、当時の日本社会のエリートであった陸海軍の将校が出した結論は、空虚なものであったといわざるを得ない。彼らの多くは、戦争の実態から最適のドクトリンを追求するのではなく、おのれが取り得る作戦や戦術に都合のいい戦例を述べ立てる「教訓戦史」に走ったのである。  陸軍は、第一次世界大戦の西部戦線に現出した物量戦の本質をみきわめようとはせず、短期決戦のための作戦案だったドイツの「シュリーフェン計画」や、タンネンベルク包囲殲滅戦の指揮統帥をもてはやし、日本も、さような戦争のわざにより、つぎの戦争に勝利すると呼号した。  海軍は、海上交通保護に象徴されるような新しい課題が生じているにもかかわらず、艦隊決戦による制海権の確保という古典的な認識をあらためることなく、第一次世界大戦の水上部隊による海戦の作戦・戦術的分析に注力し、そこからみちびかれた、現実的ではない「戦訓」にしたがった。それが、来るべきアメリカ太平洋艦隊の来寇を迎え撃ち、最終的には日本海海戦式の艦隊決戦で勝利するとの日本海軍の「漸減邀撃」ドクトリンに即していたことはいうまでもない。  つまり、昭和陸海軍は、第一次世界大戦を経験していながら、それよりも前の戦争理解と対応に終始したのであった。日本軍は、日露戦争のやり方で太平洋戦争を遂行したとはよくいわれることだけれども、かかる研究のあり方からすれば、しごく当然のなりゆきだったろう。「将軍たちは常に一つ前の戦争に備える」との皮肉な箴言がある。しかし、昭和の陸海軍は「一つ前」どころか、「二つ前」の戦争の準備をしていたのである。  そうした仮構(フィクション)にもとづく戦略が通用した背景には、陸海軍指導層の大部分に、総力戦遂行は不可能であり、強行すれば必ず破綻するとの語られざる共通認識があったのではないか――と結論づけるには、なおいっそうのリサーチと検討が必要だが、筆者は、前出の片山同様、そのような仮説を抱いている。

 

 

 

 

秀才の戦争

 いずれにせよ、昨日の理解によって、明日の戦争にのぞまんとした昭和陸海軍のあり方は、制約なき思考にもとづき不確定な将来を洞察するという知的営為を封じる結果となった。先制、機動、寡兵よく大軍を破る、艦隊決戦で一気に雌雄を決するなどの陸海軍のドグマが、当局の定めた「正解」とされ、将校たちに教え込まれた。同時期のドイツ国防軍の教範は「用兵は一の術にして、科学を基礎とする、自由にしてかつ創造的な行為なり」と概念規定していたが(「軍隊指揮」1936年版、ドイツ国防軍陸軍統帥部/陸軍総司令部編纂『軍隊指揮』所収)、昭和陸海軍はその逆へと走ったのである。  陸軍士官学校はもちろん、高級指揮官養成機関である陸軍大学校でさえも、「自由にしてかつ創造的な行為」を奨励していたとは言いがたい。図上演習や現地戦術(実際に演習地ほかに行き、現地に即した設問に答え、討議する教育方法)などで、一見、未知なる混沌とした状況に自らの思考で考える能力を鍛えているかのようではあったけれど、拠って立つ原理原則が当局の「正解」であり、それを疑うことが許されていない以上、その教育は、悪しき意味での「教化(インドクトリネーション)」にすぎなかった。  海軍も同様で、海軍大学校では、やはり図上演習や兵棋演習といった今日でいうシミュレーションや戦史教育による自主的な判断能力の育成に努めたものの、その教育は結局、漸減邀撃作戦への意思・認識の統一に終わったとみてよい。小沢治三郎が、日本海軍の「教科書」であった「海戦要務令」を読むなと述べたという挿話は、現実はそうでなかったことの裏返しの証左といえよう。  さらに致命的であったのは、陸大・海大ともに、おおむね作戦・戦術次元の知識や理解を教えるだけで、第一次世界大戦で重要性が認識された、政治(当然、外交や経済政策等も含む)と戦略を包含した「戦争指導」については等閑視したも同然だったということだ。結果として、作戦、場合によっては戦術の延長として戦略を構想する、偏頗な将校たちが誕生、累進し、日本軍の指揮統帥の責任を負って――奈落の底に落ちていった。「正解」を完璧に習得した秀才の戦争は、教科書にない局面に遭遇するや、混乱におちいり、敗北に傾いていったのである。

 

 

 

 

人事システムの硬直

新潮社 Foresight(フォーサイト)

 ドグマへの執着、さらには、それを拳々服膺する秀才の重用は、昭和陸海軍の人事システムを硬直させていった。米軍のROTC(予備役将校訓練課程)、イギリスのマーヴェリックの存在を許容する軍隊文化といった人事上のバイパスを持たぬことも相俟って、日本軍の将校たちは、独創的な異分子を持たぬ均質的な集団となっていく

 

  加えて、先に触れた官僚組織としての側面が肥大したことは、実戦において功績を上げた者や正統的なキャリア以外で頭角を現した者の抜擢を困難にした。海軍は海大よりも海軍兵学校の、陸軍は士官学校よりも陸大の成績を重視するといった差異はあるものの、おおむね学校の、それも非常に若い時期における評価をベースにした、精緻ではあるけれども融通の利かない昇進・人事システムがつくりあげられていたのである(むろん、いわゆるコネの影響がないわけではないが、その問題はひとまず措く)。

 

  ゆえに、適材適所の配置は、戦争遂行にクリティカルな意味を持つ高級指揮官の人事においてさえも望めなくなった。たとえば、海軍では、艦隊の司令長官を更迭しようと思えば、先任順位の玉突きが起こり、それを解決しなければ、配置転換は実現し得ないのであった。

 

  かくのごとき人事システムの欠陥は、すでに少なからぬ論者によって指摘されてきたことではある。とはいえ、その根源を探るにあたっては、昭和陸海軍のコマンド・カルチャー、とりわけ官僚組織としての性格ならびにドグマ化したドクトリンの問題を念頭に置く必要があるかと思われる。

 

 

 

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大木毅(おおき・たけし) 1961年東京生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大学他講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師等を経て著述業に。雑誌「歴史と人物」の編集に携わり、旧帝国軍人を多数取材。『独ソ戦』(岩波新書)で「新書大賞2020」大賞を受賞。近刊に『指揮官たちの第二次大戦 素顔の将帥列伝』(新潮選書)、『戦史の余白 三十年戦争から第二次大戦まで』(作品社)、『勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突』(祥伝社)など。

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