仏教史上、
「原始仏教=正伝の仏法」に回帰したのは「道元」和尚一人
だけ、である。
だから『護国正法義』は、「佐」法印によって、正しく、小乗仏教と判定された。
「声聞乗」ではなく「縁覚・独覚乗」であり、しかも独特の解釈である。
…『溪嵐拾葉集』から。
「如浄」禅師が「心塵脱落」と教え、…古い「天台宗」思想
「道元」は、それを否定する「身心脱落」と受け取った。…「原始仏教」
これは、
『宝慶記』は、如浄との会話が全て終わった後に、自坊に戻って記録している。
つまり、全体の会話から文脈上「心塵脱落」と明確に理解しているのに、
それを完全に否定する「原始仏教」の教え「身心脱落」と変更して記録している。
…なお、南部の寧波地方の中国語では、全く同じ発音になる。
この語録では、如浄禅師の高弟「無外義遠」禅師が「序」で「心塵脱略」と明記。
1264年は如浄禅師の37回忌法要の年で、代表として「義尹」が中国に渡った。
「義尹」は、「道元」和尚から、直接、「嗣書=血脈書」を授かったから。
逆に、これは「懐奘」禅師は「道元」から「嗣書」を授かっていない証拠である。
彼は「日本達磨宗」で「嗣法」し、道元の「原始仏教」を選択しなかった。
要は
「道元」自身は、俗物である「如浄」禅師の本質を知っていたが、
「中国で無名である」から自由に潤色して「日本で布教する看板」に用いた。
…「臨済宗が政治を支配していた」ので、自分が曹洞宗であることを隠していた。
だから、入山式でも「先師」に香を焚くことをしなかった。
…たびたび、「寄付を募る」ために「都市」に出かけた。だから「出世」もできた。
更に、
「瑩山」禅師は「日本天台宗、達磨宗・派」の「天台密教、梵我一如の坐禅の悟り」であり、
主著『伝光録』で、「梵我一如」ヒンデゥー教の信仰を、明確に示している。
だから
「道元」和尚の「原始仏教」とは「別の宗教」である。
そして、
これは「最澄の天台宗」を「密教と坐禅修業と」で、完成させたのである。
他方、
道元の主著、新しい体系、12巻本『正法眼蔵』では
「原始仏教」であることが、より明確に示されている。
そして、
これは、理解されず、日本の仏教界には、全く影響を与えなかった。