永平寺五十世「玄透」禅師が「良寛」を追放した

「良寛」は「臨済宗の修業方法」で悟った。

つまり「臨済宗のお悟り」を得て、印可状を授かった。

 

他方、

「玄透」禅師は、1811年、95巻本『正法眼蔵』(所謂、本山版)を出版するほど、

曹洞宗復興に熱を入れていた

そのため、「良寛が修業した寺」に人物を送り込み、

それまでの臨済禅方式の追放を行った。

良寛はそれに逆らった。

 

その結果、

「寺社諸法度」での「本山に逆らう犯罪者」として、逃亡者になった

だから、良寛は、曹洞宗の寺には、近づくことはなかった

他の宗派や神社などに、隠れて住んだ。

勿論、曹洞宗の僧籍を剥奪された

 

明治になって、或る和歌の専門家が褒めたので、

現在では、

やおら、曹洞宗の僧侶だと、言い始めている

 

だから、

良寛の「漢詩」は「臨済宗の教え」を基盤にしている。

臨済宗の学者の分析が、正しい。

 

 

 

沙門良寛: 

自筆本草堂詩集を読む

1989/1/1 柳田聖山(著)

==或る書評より
柳田聖山先生だから、
さすが、しっかりと法系が書かれていて、
<永平寺が衰退していたところ、永平50世として再興した傑物>が、良寛を追放した関係が良く解る。

ここには、道元の坐禅思想・仏教思想を巡って厳しい対立を経た上で、人を磨き上げた良寛がある。
この事実が重要である。

良寛は、漢詩の中で、「(相手に)悟りがない」と痛烈に批判しているが、
道元自身が「そもそも見性=悟りは存在しない」と教えているのだから、
むしろ相手の方が道元の立場である。
とも言える。

良寛は、自分の禅の理解を護る為に、寺を追放された!
 ひとり妥協はしなかった。
結果として、曹洞宗からは、完全に抹殺された。


<子供と遊ぶやさしいだけ>の良寛のイメージは、
後代の人の願望が作り出したものであり、虚像・虚構である。

中国の明末に日本に上陸した黄檗宗によって、(看話禅、念仏禅、仏教儒教道教・三教一致、…)
逆に、宋代の主流の看話禅を徹底批判した道元和尚の坐禅の独自性が、明確になった。

道元への復帰運動の中で、良寛は一人で立ち向かい戦った。
ここには、厳しい修行で33歳に印可状を貰った良寛がいる
意志の強い人であった。

その後、正法を興さず、寺を避けて、流浪の人生をおくった。
しきりに己を泣く、その熱い砕かれた心情こそが重要である。
 
 
 
==或る書評より
良寛は、22歳で大忍国仙に従い、34歳の春まで、円通寺の道場で厳しい修行を続けた。
本書では、その修行時代の「法華讃」が、最初に「52」詩もが並び、正確に分析し、更に現代語されている。
更に、当時の仏教界を痛烈に批判する「僧伽(僧の仲間)」が続き、
膨大な長詩「唱導詞(告報のことば)」で正法を切々と説く。
曹洞宗から追放される良寛の真骨頂がここにある。
民間の良寛の人気は、この良寛の仏教思想とは、無縁のところで咲く、あだ花である。
全ての良寛道人を知りたいという人にお勧めする。

 

 

 

 

良寛: 漢詩でよむ生涯 (NHKライブラリー 120)

 

良寛: 漢詩でよむ生涯 

(NHKライブラリー 120) 

2000/10/1 柳田 聖山 (著)

良寛がつくった数々の漢詩をよみこなし、それを解き明かしていくことで、
良寛が何を考え何を思ったか、生涯をどう生きたかに迫る
 
==或る書評より
特に第9章に描かれる寛政頃の越後を襲う数々の天災地変を読んだ詩は、
今、東北を陥れている津波の後遺症、福島原発の後遺症に似た
被害と人々へ圧(の)し掛かる逃げ場の無い窮状を髣髴とさせる。
いくつかある中で、
「聞くならく香積山に無縁法華有り、随喜して作る」など
柳田さんの解釈を踏まえて読むと、現代の政治家
(選ばれて統治に与る者達)に根本的に欠けている気質・行動を、
逆の面であぶりだしているように思えてくる。

良寛さんが書かれたものを読んできているが、
この柳田さんの筆で描かれる人物像が
(中国に一時期渡って、消息が絶えていたのではないかという説も含め)
一番厳しい禅者「良寛」を捉えているようで、興味深く読むことができた。
この本は、NHKの1999年度「宗教の時間」で放送されたテキストを底本にまとめられたもの。
しかし、幾編もの良寛さんの書が掲載されているが、
床の間に飾るいかにもこれだと言いたげな坊主坊主した書と一線を画した、
伸び伸びした筆使いはいつ見てもいいものだ。
 
==或る書評より