釈尊は「在家」のバラモン教は奪わなかった!
道元も、ご自分は「原始仏教」であったが、
「義介」の「日本達磨宗」を奪わなかった。
道元の教団は「原始仏教」、
「中国禅=老荘思想=道・ダオの哲学」
「日本達磨宗=天台密教・梵我一如の哲学」
の混成であった。
しかし、
「出家」であり、「社会の掟」の外にあり、
「道元独自の新しい清規」制定で、集団生活ができた。
道元は釈尊の立場であって、この3つのグループを観ていた。
日本達磨宗の「懐鑒」禅師は、道元の傘下から出て行き、
残った「日本達磨宗」の弟子たちに影響を与えていた。
だからこそ「義介」禅師は、1251年に「日本達磨宗」を「嗣法」した。
このことを「道元」和尚は知っている。
「義介」は「道元」和尚と「懐鑒」禅師との連絡係であり、
「懐鑒」禅師の最後の様子を報告している。
要は、「道元」和尚が生きている時は、
この3つのグループは、一緒に、修業していたのである。
だからこそ、
瑩山禅師は、
ご自分の『坐禅用心記』、独自に『瑩山清規』を制定した。
「日本達磨宗」一つに、統一した。
つまり
「義介」が中国に渡り「直輸入した、最新の儀式」が、
「永平寺の分裂」を招いたのである。