瑩山禅師が日本人の死の問題を最終決着した。
具体的には、
「成仏し、ご先祖様に成って、子孫と交流し、恩恵を施す」
これで、
安心して、家族親族に見守られて、亡くなって逝った。
同時に、見送る家族も、自分もそうなることで安心した。
そして、
ご先祖様は「お彼岸・お盆」で迎えられ、
盆踊りや、御馳走やお神酒などを振舞われ、
共に食した。
(昔は、お墓の前で、共食などした)
これには「教義」がない、ので、
他宗も、そのまま真似て、日本中に広まった。
「人間が神様になる」日本の土着信仰が、
瑩山禅師によって、明確な形を与えられた。
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中国の死者は、死者専門の「儒教」が葬式を受け持つ。
インドの死者は、霊魂が「輪廻転生し」て、
不在となるから、
その抜け殻の「肉体・死体」は、そのままガンジス川に流したりする。
だから、
釈尊の弟子が「釈尊の葬式をしなかった」のは当然である。
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要は、
日本人は「死の問題の解決」を、
「仏教の原理」ではなく、
日本人古来の
「人間が神様に成る。
神様をお迎えして、おもてなしをする、接待する。
食事を提供する。
「盆踊り」をする。奉納「相撲」を見せる。
神様を、楽しませる。
最後は、送り火で、あの世に帰らす。送り出す。」
という「神様との交流の行動様式」で、解決し、処理した。
瑩山禅師の「死者の問題の扱い」は、上記に則っている!
他方、
「出家」者へは、
「日本天台宗、達磨宗・派」の「天台密教、梵我一如の坐禅の悟り」で、
「死」の解決を図った。
つまり、
ハイブリッドの、純日本国産の宗教「日本達磨宗」だから実行できた。
他方、
道元は、「原始仏教」への回帰であった。
しかし、日本人には、これは理解が不可能だった。
だから、日本仏教には、全く影響を与えなかった!
日本人と神 (講談社現代新書)
2021/4/14 佐藤弘夫(著)
しかし、この本は日本人が「超越的なもの」(著者はカミと記されています)や「人知を超えた自然現象・社会現象」をいかに捕らえ、考えたかという視点で書いてある本で、このような視座も思想史・宗教史を研究する事が必要であると感じました。神道も仏教もその他の信仰も、「超越的なもの」や「人知を超えた自然現象・社会現象」をいかに捕らえ、考えたかという視点で捕らえると、仏も神も霊もその動きは違っても同列が考える事ができます。その動きで私が心に残っているのは、「古墳」・「天皇の存在」・行者・神の来迎図・垂迹・伊勢神道・後醍醐天皇の「即位灌頂」「一揆」「差別の思想」「明治維新の天皇」「現人神」・・・切りがありませんが、これらは、コスモロジーのバリエーションと言えると思います。日本人の心の中を探りながら、今の社会現象(例えばゆるキ毀滅の鬼滅刃とか)を見て行くのもおもしろいなとこの本を読んで感じました。
日本人の神 (河出文庫)
2013/12/6 大野晋(著)
縄文時代からのアニミズム的八百万の「カミ」→
国学者(特に本居宣長)による仏教伝来以前の「カミ」の再発見→
という流れが明解に綴られている。特に、「God」と「神」の関係で、「God」に対する「神」は単なる"訳"に過ぎず、唯一絶対神である「God」と日本人が考える「カミ」との間には大きな隔たりがあるという指摘は目から鱗。また、和辻哲郎氏「風土」を引用し、文明と文化の違い、日本文化の特徴を語っている箇所も参考になった。