小泉悠さんが語る 第1回 ロシア、ウクライナ、国際社会の誤算

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毎日新聞

オンラインイベント「ロシアとウクライナ 終わらない戦争の行方は」で話す小泉悠・東大先端科学技術研究センター准教授=東京都港区で2024年3月15日午後7時39分、後藤由耶撮影

 ロシアによるウクライナ侵攻は3年目に入り、終わりが見えない。ロシアでは3月、プーチン大統領が通算5選を決めた直後に、大規模なテロが発生した。この戦争を巡って、双方の国や世界はどこへ向かうのか。ロシアの軍事研究で知られる小泉悠・東大先端科学技術研究センター准教授が、3月15日の毎日新聞のオンラインイベントで語った。内容を6回に分けて紹介する。【聞き手・真野森作】 【写真】ウクライナ侵攻以降、ロシア人の主な移住先  ――今年は2014年3月に起きたロシアによるウクライナ南部クリミア半島の一方的併合から10年の節目でもある。

 

  ◆14年には、ロシアの動きによってウクライナ東部ドンバス地方で紛争も勃発した。当時、国家はもはや全面戦争はできないが、軍事力とそれ以外の力を使って不透明な状況を作り出すという、「ハイブリッド戦争」の時代が来たと言われた。そこから10年の時を経て、結局、歴史教科書で見たような大戦争が続いている。先祖返りしてしまったのかという感じを強く持っている。  ――14年当時、国際社会は対応を誤ったのだろうか。

 

  ◆今にして思えばそうだったかもしれない。

クリミアを奪い、ドンバス地方を親露派の未承認国家にしたロシアを

しっかりと罰してこなかった我々の落ち度はきちんと反省する必要がある。

 

  欧州連合(EU)と米国は3次にわたって対露制裁を発動したが、1~2次は形式的だった。その後、ドンバス紛争に巻き込まれる形で、14年夏に(親露派武装勢力によるとみられる)マレーシア航空機撃墜事件が起き、欧州の乗客も多数が死亡した。これを受けて、欧米はそれまでより強力な3次制裁に踏み切ったが、こういう突発的な事態が起きなければどうなっていたか分からない。  これはロシアに間違った教訓を与えたと思う。さらに、日本は欧米ほどの厳しい制裁には踏み込まなかった。当時の安倍晋三政権が対ロシアで北方領土問題の交渉に尽力したことは否定しないが、結果を総括する必要はある。ウクライナでの現在の事態は、我々西側のロシアへの向き合い方が失敗した結果でもあると思う。  ――ロシアによる22年2月のウクライナ侵攻開始以降の経緯を振り返りたい。

 

  ◆侵攻当初、ロシアはウクライナ周辺を

北・東・南から「コ」の字のように囲んで、まんべんなく攻めた。

これはウクライナ側を甘く見ていたとしか思えない。

 

ロシアは旧ソ連諸国で最大の軍隊を持っているが、開戦前の兵力は九十数万人に過ぎないとみられていた。このうち空軍、海軍、戦略ロケット部隊などを除くと、ロシア軍の地上兵力は平時においては36万人くらいしかいなかった。このうち25万人ぐらいは徴兵なので、戦場に送ってはいけないという決まりだ。  対するウクライナ軍は総兵力20万弱程度と評価されていた。海軍はほぼなく、空軍はそれほど大きくないので、かなりの部分が陸軍だ。地上兵力同士で比べると、両国はほとんど変わらなかった。ロシアが侵攻当初に投じた地上兵力は15万人ぐらいで、そこに治安部隊やウクライナ東部の親露派武装勢力を入れても19万人はいかないだろうというのが米国の見立てだった。つまり、敵とほとんど同等の兵力なのに、分散させて3方向から攻めるというのは、相手を見くびっていないとそういう作戦にはならない。  プーチン氏にしてみれば、ヘリ部隊による急襲で首都キーウ(キエフ)を制圧すればよいのだとか、あちこちに紛れ込ませたスパイを活用するだとか、いろいろな方法で電撃的に勝てると思っていたのだろう。だが、そうはいかないことが、開戦後の最初の1週間ほどで分かってしまった。  ロシアはキーウを落とせず、開戦から1カ月で首都周辺から自ら撤退した。それ以降はウクライナの東部と南部で戦闘が続き、双方とも大きな決定打がないままだ。唯一の大きな変化は、ウクライナが22年秋の大反撃で、東部ハリコフ州の半分くらいを取り返したことだ。南部ヘルソン州でもウクライナ軍の猛攻でロシア軍が撤退した。

 

  23年はウクライナが反転攻勢に出たが、あまり進軍できなかった。

一方でロシア軍は最近、東部ドネツク州でバフムトやアブデーフカなどを制圧したが、

何万人も兵士を死なせて街を一つ奪うというレベル。

戦線の形を大きく塗り替えることは、ロシア軍もできていない。

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