「B-29が日本を焦土にした」から、日本人は「憲法で軍隊を放棄」ができた。

「軍隊放棄」を、共産党だけが反対した。

 

日本人は、外国に出かけて、国外でだけ戦争していた

 

だから、実際の戦争が何なのかを、全然知らなかった!

 

「B-29の東京大空襲」と、「広島長崎の原爆投下」で、

初めて、「戦争」というものを知った。

「知った」から、ようやく、日本国民は「軍隊」を放棄できた

 

歴史は「功」と「害」と、両面から、観なければならない。

 

 

「東条英機」首相・陸軍大臣と、

「マッカーサー」元帥と、政治能力の差異は・・・

 

 

 

 

 

B-29で日本を焦土にし、その日本から勲章をもらった「戦略爆撃の立役者」の意外な経歴(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

 

B-29で日本を焦土にし、その日本から勲章をもらった「戦略爆撃の立役者」の意外な経歴

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デイリー新潮

カーティス・E・ルメイ(1906-1990)

 核兵器開発者を描く映画「オッペンハイマー」で、改めて広島・長崎への原爆投下が取り沙汰されているが、実はその前に戦略爆撃によって日本の多くの都市が焦土と化していたことも忘れてはならない。

 

  【写真を見る】日本国民を焼き尽くした作戦 〈実際の写真〉

 

 日本国民を焼き尽くした戦略爆撃の立役者とされるのが、カーティス・E・ルメイ。軍事史に詳しい大木毅さんの新刊『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)でも、一章を割いてルメイの生涯と戦歴を紹介している。

 

  最終的に空軍大将にまで登り詰めたルメイとは、いったいどんな人物だったのか――。以下、同書をもとに、彼の数奇な運命について振り返ってみよう(『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』第12章をもとに再構成)。

 

  ***

 

(最初の)東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年12月、

ルメイは日本政府から勲一等旭日大綬章を授与された。

航空自衛隊の育成に尽力した功績によるものだった。

終戦から19年、かつて日本全土を焼尽した男への授章は、

当然ながら国会を始めとして、さまざまな場所で議論を巻き起こした。

 

 

  ルメイは1906(明治39)年、オハイオ州でフランス系の家庭に生を受ける。彼が空に興味を持つようになった時期は明確だ。1910年11月7日、間もなく4歳になる彼は、裏庭で頭上を飛び去る機械を目撃する。ライト兄弟のB型飛行機がデモンストレーション飛行をしていたのだ。この瞬間から飛行機に魅入られたルメイだが、そのまま軍人への道には進まず、オハイオ州立大学に進み土木工学を専攻する。

 

  一方で在学中にROTC(予備役将校訓練課程)を受講し、陸軍予備将校の資格も得た。しかし、航空勤務の魅力には抗えなかったようで、飛行訓練を受けて現役の少尉となり、追撃機(いわゆる戦闘機)中隊に配属されるが、大学の学籍は抜かず、単位履修にも励んだ。日本では考えにくいことだが、当時の米陸軍は、ROTC出身の士官が大卒の資格を得られるよう配慮していたというのだ。

 

 

 

 

自らも爆撃機に搭乗し指揮したルメイ

 最初は追撃機乗りとしてスタートしたルメイだが、ハワイの基地で初めて経験した爆撃機訓練が、すべてを変えた。さっそく爆撃機へ転科すると、以後、主として当時最新鋭の4発重爆撃機B-17で経験を積む。日米開戦時には少佐となっていた彼は、部下に猛訓練を強いる鬼士官として恐れられた。

 

  42(昭和17)年、イギリスに展開する第8航空軍の指揮下で、大損害を出していたドイツ本土爆撃に新たな戦術を提案。しかも、自らも爆撃機隊の一機に搭乗し、体を張って作戦を指揮し、優秀さと将兵に対する苛酷さを示した。出世街道を驀進したルメイは37歳の若さで少将となり、今度は太平洋に戦場を移す。

 

 

  ここでルメイは、彼の名前と不可分に結びつく高性能爆撃機、「超空の要塞」B-29と出会う。時代のはるか先を行くこの空の怪物は、彼がライト兄弟機を目撃して以来の夢を実現させることとなる。ヨーロッパで用いた高々度からの精密爆撃は、ジェット気流が吹き荒れる日本では適当でない。ならば焼夷弾を用いて、低い高度からの爆撃を行い、日本の都市を焼き払うのはどうか。特に日本の零細企業や下請けの家内工業の多くは、個人の住居に置かれている。これらは非軍事目標ではなく、日本の継戦能力の拠点である――。

 

 

こうした戦術はルメイが独自に考え出したものではなく、合衆国陸軍航空軍が戦略爆撃の効率を追求するなかで生じたものだった。しかし、それを徹底的に実行したのがルメイであったこともまた事実だ。  45(昭和20)年1月、マリアナの第21爆撃兵団の指揮官となり、2月には低高度からの焼夷弾攻撃の指令が下る。その後の「成果」については、改めて語る必要もあるまい。最終的には米空軍大将にまで登り詰めたルメイは、コロラド・スプリングスの合衆国空軍士官学校墓地に葬られた。

参戦各国の指揮官や参謀たちは、いかなるエリート教育を受けたのか。どの国も腐心したリーダーシップ醸成の方策とは何なのか――。「指揮統帥文化」という新たな視座から、日米英12人の個性豊かな人物像と戦歴を再検証。組織と個人のせめぎ合いの果てに現れる勝利と敗北の定理を探り、従来の軍人論に革新を迫る野心的列伝 『決断の太平洋 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』

 

 

 ルメイの赫々たる戦歴には、日本であれば軍の首脳を独占した、いわゆる士官学校(米陸軍であればウェストポイント)出身者ではなく、ROTC出身者であったことが影響していると、大木氏は指摘する。

 

以下はその引用である。

 「かくのごとく、ルメイは、陸軍航空軍が空軍となる過程における用兵思想の変化を体現した人物であった。

彼自身は必ずしも独創的な戦略思想家というわけではなかったが、

その個性と、ROTC出身ならではの、

陸軍士官学校卒の航空軍将校の価値観に拘泥しない姿勢は、

あらたな用兵思想を現実のものとするには打ってつけだったように思われる。

  日本空襲に際しての彼の役割を考えるには、

そうしたキャリアや組織内での独自の位置といった側面を加味しなければならないのではないだろうか」

 

  いかがであろうか。すでに19世紀から制度としてROTCを設けていたアメリカと、

陸士海兵出身者以外の士官が軍の中枢にいることが想像できない日本、

この彼我の差は大きかろう。

 

日夜、「構造変換」にさらされている21世紀の戦争においても、

各国軍隊の士官学校出身者が伝統的に持っている価値観が、常に最適解を示すとは限らない。

 

 ※本記事は、大木毅『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)に基づいて作成したものです。

デイリー新潮編集部

新潮社

 

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