『
漢字を、中国のもともとの発音に倣って読むだけではなく、
縄文時代からずっと喋っていた自分たちの
オラル・コミュニケーションの発話性に合わせて、
それをかぶせるように読み下してしまった
』
そもそも、漢字は「表意文字」であり、意味を表示している。
「表音文字」ではない。
最初に、中国の揚子江=長江の「呉の発音」が来て、
後に、唐王朝「長安・西安」の「漢音」が来た。
全く別の発音だった。
そこで、
そこに「日本語の発音」を加えた。
なんと「流」の漢字に、
自動詞「ながれる」と他動詞「ながす」と、二つも。
それを「送り仮名」を振って、区別して、利用した。
「流れる」と「流す」と。
これで、漢字が「日本語の重要部分」となった。
「日本の文明」に圧倒的な衝撃を与えた「3つ目の黒船」の正体…史上「最初で最大」の文明的事件(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
「日本の文明」に圧倒的な衝撃を与えた「3つ目の黒船」の正体…史上「最初で最大」の文明的事件
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日本文化はハイコンテキストである。 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!
【写真】じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」
*本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
史上最初で最大の文明的事件
日本という国を理解するためには、この国が地震や火山噴火に見舞われやすい列島であることを意識しておく必要があります。いつどんな自然災害に見舞われるかわからない。近代日本の最初のユニークな科学者となった寺田寅彦が真っ先に地震学にとりくんだのも、そのせいでした。日本はフラジャイル(壊れやすい)・アイランドなのです。 しかも木と紙でできあがった日本の家屋は、火事になりやすい。燃えればあっというまに灰燼に帰します。すべては「仮の世」だという認識さえ生まれました。けれども、それゆえに再生可能でもあるのです。こうして復原することは日本にとっては大事な創造行為になったのです。熊本城の破損や首里城の炎上は心を痛める出来事でしたが、その復原こそは多くの人々の願いとなった。そのため「写し」をつくるという美意識が発達します。 ひるがえって、日本列島は2000万年前まではユーラシア大陸の一部でした。それが地質学でいうところのプレートテクトニクスなどの地殻変動によって、アジア大陸の縁の部分が東西に離れ、そこに海水が浸入することで日本海ができて大陸と分断され、日本列島ができあがったと考えられています。 このような成り立ちをもつゆえに、日本列島が縄文時代の終わり頃まで長らく大陸と孤絶していたという事実には、きわめて重いものがあります。日本海が大陸と日本を隔てていたということが、和漢をまたいだ日本の成り立ちにとって、きわめて大きいのです。 その孤立した島に、
遅くとも約3000年前の縄文時代後期までには稲作が、
紀元前4~前3世紀には鉄が、
4世紀後半には漢字が、
いずれも日本海を越えて大陸からもたらされることになったという話を、
『日本文化の核心』第1講でしておきました。
「稲・鉄・漢字」という黒船の到来です。
とりわけ最後にやってきた漢字のインパクトは絶大でした。
日本人が最初に漢字と遭遇したのは、筑前国(現在の福岡県北西部)の志賀島から出土した、あの「漢委奴国王」という金印であり、銅鏡に刻印された呪文のような漢字群でした。
これを初めて見た日本人(倭人)たちはそれが何を意味しているかなどまったくわからなかったにちがいありません。
しかし中国は当時のグローバルスタンダードの機軸国であったので(このグローバルスタンダードを「華夷秩序」といいます)、日本人はすなおにこの未知のプロトコルを採り入れることを決めた。
ところが、最初こそ漢文のままに漢字を認識し、学習していったのですが、
途中から変わってきた。
日本人はその当時ですでに1万~2万種類もあった
漢字を、中国のもともとの発音に倣って読むだけではなく、
縄文時代からずっと喋っていた自分たちの
オラル・コミュニケーションの発話性に合わせて、
それをかぶせるように読み下してしまったのです。
私はこれは日本史上、最初で最大の文化事件だったと思っています。
日本文明という見方をするなら、最も大きな文明的事件だったでしょう。
ただ輸入したのではなく、日本人はこれを劇的な方法で編集した。
中国語学習ムーブメント
漢字の束を最初に日本(倭国)に持ってきたのは、百済からの使者たちでした。 応神天皇の時代だから4世紀末か5世紀初頭でしょう。阿直岐が数冊の経典を持ってきた。当時の日本は百済と同盟関係になるほどに親交を深めていました。 阿直岐の来朝からまもなく、天皇の皇子だった菟道稚郎子がこの漢字に関心をもち、阿直岐を師と仰いで読み書きを習いはじめました。これを見た応神天皇が、宮廷で交わしている言葉を文字であらわすことに重大な将来的意義があると感じて、阿直岐に「あなたに勝る博士はおられるか」と尋ねたところ、「王仁という秀れた者がいる」と言います。さっそく使者を百済に遣わしてみると、王仁が辰孫王とともにやってきた。 このとき『論語』『千字文』あわせて11巻の書物を持ってきた。この『千字文』というのは、たいへんよくできた漢字の読み書きの学習テキストです。私も父に教えられて書の手習いがてら、いろいろ学びました。 王仁は「書首」の始祖となります。その後も継体天皇7年のときに来朝した五経博士の段楊爾、継体10年のときの漢高安茂、欽明15年のときの王柳貴というふうに、何人もの王仁の後継者が日本に来ました。 このことは、見慣れない「文字」とともに「中国儒教の言葉」がやってきたことを意味します。そうして朝廷に中国語の読み書きができる人材がいよいよ出現してきたのです。 それなら、こうした外国語学習ムーブメントが日本の中に少しずつ広まって、みんなが英会話を習いたくなるように、やがて中国語に堪能な日本人(倭人)がふえていくはずです。
実際、たしかにそういうリテラシーの持ち主はふえたのですが(貴族階級や僧侶に)、だとすれば今日の日本人が英会話をし、英語そのままの読み書きができるのと同じように、多くの日本人が中国語の会話をするようになって当然だったのですが、そうはならなかった。
中国語をそのまま使っていくのではなく、漢字を日本語に合わせて使ったり日本語的な漢文をつくりだしたりした。まさに文明的な転換がおこったのです。
* さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
松岡 正剛
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