もう、虐殺は、見たくない、そんな感じです。

 

「南京大虐殺」を自分なりに調べて、「納得」させましたが、

いろいろな虐殺行為を起こすのです。

「東史郎」が、必死に記録に残してきて、

たまたま、重病になって入院治療し、3か月ぐらい後に、一人、病人の恰好で、

帰国したので、日記など手記資料を、没収されずに、郷里に戻った。

 

それを基にして、清書した『東史郎日記』

これを読むと、普通の日本人が、「食料を略奪して」進軍するうちに、

犯罪を犯しても麻痺していくのが、良く解ります。

日本軍は、補給計画を実施しなかった。現地の農民から奪った。

 

日本軍は、B級戦犯「通例の戦争犯罪」です。

 

ナチス政権ヒトラーは、C級戦犯「人道に反する罪」

それこそ、常軌をはるかに越えるもので、

計画的に、機械的に、実施されました。

 

 

 

強制収容所の「隣の生活」と死体処理部隊の絵画から考える「視線の向こう側」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

 

強制収容所の「隣の生活」と死体処理部隊の絵画から考える「視線の向こう側」

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現代ビジネス

ドイツでの評価

〔PHOTO〕gettyimages

 つい先日(2024年3月半ば)、『関心領域 The Zone of Interest』を鑑賞した。わたしが居住するドイツでは2月末から上映されており、欧州のメディアでの作品紹介やアカデミー賞式典でのジョナサン・グレイザー監督の発言をめぐる応酬などもあって、絶対に劇場で観なければならないと考えていた。

 

  【写真】死体処理をおこなった部隊の写真も…

 

 「ドイツでは賛否両論」のように言われることもあるが、本作は総じてドイツでも高く評価されているように思う。ただ、ナチスの歴史に触れる作品だからといって、他のアカデミー賞作品以上に高い関心が寄せられているかと問われれば、そうではないという印象だ。実際に映画館でも、平日の夕方上映の回だったからということもあろうが、200席近くある劇場に、15人程度の観客がまばらに座るのみだった。  日本でも5月下旬から公開されることが決まっており、本稿ではなるべく鑑賞体験を損なうほどのプロットへの言及は控えたいが、いくつかの点で内容にも触れているので、注意して読んでもらえればと思う。ちなみに、筆者は、映画の原案となっているマーティン・エイミスの同名の小説は未読である。  あらすじをひとことでまとめれば、「ユダヤ人絶滅のための強制収容所に隣接する区域に住居を構えていた、アウシュヴィッツの強制収容所所長のルドルフ・ヘスとその家族の生活」についての映画である。  The Zone of Interest――ここで「関心領域」と訳される言葉は、ドイツ語の「Interessengebiet」にあたり、アウシュヴィッツ近郊(現在のポーランドのオシフェンチム(Oświęcim))に広がるユダヤ人収容施設に勤務するナチス関係者のために確保された地域を指す用語である。森や農業地を含む、およそ40平方キロメートルに広がる空間である。  また、この「Interessengebiet」には、端的に「関心を寄せることのできる範囲」という字義通りの意味だけでなく、「自分がそこから利益を享受できる領土」を示すニュアンスもあるようだ。実際にこの「Interessengebiet」を作るために、土地に暮らしていた人々が排除され、追われた人々の財産が収奪された。そして、その「領域」と収容施設を隔てる壁が建設された。興味のないことを無視したまま、自分に役立つものだけを搾取するために。  映画のタイトルロールがゆっくりと霞んでいくと、不穏な機械音とともにスクリーンが真っ黒になる。まるで、ゾーンのなかの「向こう側」に引き込まれていくような感覚に襲われる。

 

 

映画『関心領域』が描いたもの

 『関心領域』には、親衛隊員としての経験を経て強制収容所関連の役職を歴任したルドルフ・ヘス(Rudolf Franz Ferdinand Höß)が、その苗字や役職名ではなく、「ルドルフ」や「お父さん」と親しみを込めた朗らかな声で呼ばれる。子どもたちと快活に自然のなかで遊び、愛犬や馬をかわいがる、そういうヘスの姿が描かれている。その一方で、応接室で新設されるガス室について話したり、書斎から収容所の各部署に電話をしたり、ハンガリー首都からのユダヤ人移送計画の命を受けたりといった具合に、第三帝国の役人として忙しなく働くシーンが続いていく。  ヘスの妻は手をかけて育てた草花が咲く庭を愛している。そこで子どもたちもすくすく育つ。兄弟姉妹でケンカやいたずらをしながら。まさにその庭の塀の向こう側に、日々、何千人ものユダヤ人が、ヨーロッパ中から列車で到着していたが、そのことは映像に収められない。  背景にもくもくと立ち上がる灰色の煙と、かすかに聞こえる銃声、怒号、叫び声に、それでも心臓がぎゅっとしめつけられる思いを抱くのは、わたしたちが「アウシュヴィッツ」という地名に固く結びつけられた史実を、そこで起こった恐ろしい出来事の証言や物語を知っているからである。  「強制収容所に隣接する」と書いたが、ヘス家の建物は、本当に収容施設との境目に面している。アウシュヴィッツ跡地につくられた博物館を実際に訪れて驚いたことに、敷地内から目視できる距離にある。ガイドツアーでも、「あの家に住んでいたナチ党員の家族は、普段と変わらず食事をし、幸せな時間を過ごしていたのです」という具合に、指差して言及できるほど近い位置関係なのである。ポーランドに住んでいたことがある筆者は、同博物館のツアーに参加したことが3回あるが、すくなくともそのうち2回はヘスの家に言及があったと記憶している。  さすがに、塀をはさんですぐに並ぶ建物などは司令官らの働くオフィスだったし、処刑が行われた空間は施設の真反対にあるので、それなりの距離があったのだが、最初(1940年)に設置されたガス室(第一クレマトリウム)からは歩いてもせいぜい5分とかからないだろう。  映画では背景となっている灰色の煙も、その匂いも、スクリーンの「こちら側」には届かない。しかし、それは紛れもなくヘス家の日常の一部だったのだ。  映画作品『関心領域』の大部分を占める鮮やかなカラー映像――それはヘス家の調度品や美しい園芸風景を映し出すときに一層はっきりと意識される。これを、現実を切り取ったポジティブだと考えるなら、その色彩に塗りつぶされた白黒のネガティブにこそ被写体としての人間の実態が宿る。ナイトビジョンカメラを使って撮影されたと思われるいくつかのシーンに、地元のポーランド人と思しき少女が登場する。カラーとモノクロの境界を、そして施設の外側と内側の壁を越えて食糧を強制収容所のなかに持ち込もうとする彼女の抵抗を、反転の映像の結果として鑑賞者は目撃することになる。

 

 

悲痛を増殖させていく絵画『ビルケナウ』

絵画作品『ビルケナウ』と製作者ゲルハルト・リヒター

 「アウシュヴィッツ」とその視覚化について考える際、2022年に東京で大規模な回顧展が開かれたゲルハルト・リヒターの名はとりわけ重要である。東京国立近代美術館の展覧会では、会場に入って左手すぐの大きな部屋に、目玉作品『ビルケナウ』を構成する巨大な四枚の抽象画が展示されていた。  リヒターの絵画『ビルケナウ』は、描かれない「向こう側」に「こちら側」の図像を重ね合わせるというグレイザーの撮影の手法に通じるものがある。どちらの作品も、背景に灰色の世界があり、その表面に色彩を用いた表現が加えられている。  強制移送・労働と大量殺戮の現場となった「アウシュヴィッツ」が指し示すものは、実際には、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、そしてモノヴィッツという、三つの土地に建設された収容施設群である(世界遺産としての登録名は「アウシュヴィッツ=ビルケナウ ナチス・ドイツの絶滅収容所群」)。よく知られる線路が直接乗り入れるレンガづくりの建物は、第二強制収容所のビルケナウの一部にあたる。既存の建物をつかった第一収容所と比べても、収容と強制労働だけを目的にして作られた施設であるビルケナウの環境は過酷なものだったという。  四連絵画『ビルケナウ』は、まさにこのビルケナウで撮影された有名な4枚の写真「ゾンダーコマンド写真(Sonderkommando photographs)」に上に成り立っている。リヒターが転写して描いた「ゾンダーコマンド写真」の上に絵の具を塗り固め、あるいは削ぎ落としてて制作したものなのだ。  ゾンダーコマンドとは、囚人たちから成る部隊で、彼らは殺された死体の処理を請け負わされていた。他の囚人とは異なる地位を活かして、何とかその凄惨さを写真に収めようとした人たちがおり、4枚だけ写真を外に持ち出すことが可能となった。それが、「ゾンダーコマンド写真」である(2016年に同じくアカデミー賞外国語映画賞を受賞したネメシュ・ラースローの『サウルの息子』でも、写真撮影の様子が描かれている)。  東京のリヒター展では、この「ゾンダーコマンド写真」4枚も、解説とともに展示に組み込まれていただけでなく、『ビルケナウ』をデジタル・プリントした同じサイズの「写真」が、対になるかたちで配置されていた。

 

 

  展覧会に足を運んだ人でないと想像しにくいかもしれないが、ひとつの壁には絵画の『ビルケナウ』4枚が、その傍に(小さめのサイズではあるが)「ゾンダーコマンド写真」4枚が、そしてその向かいの壁にデジタル写真の『ビルケナウ』4枚が並ぶという格好である。さらに、もうひとつの残された側面には暗いトーンの鏡作品が設置されている。カメラという機械によって生み出される表象に、批評的な性質をもつ絵画作品である『ビルケナウ』の複製版メタ・ビルケナウが対置され、うつろな鏡に反射する。

 

  リヒターの『ビルケナウ』を通じて、下敷きとなった「ゾンダーコマンド写真」と写真に捕えられた悲痛が増殖していく――現在から過去へ向かう視線を支えるその空間は、居心地のよいものではありえない。

 

 

 

「向こう側」と「こちら側」の越境の可能性

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(平凡社、2006年)書影

 そもそも、「ゾンダーコマンド写真」には複数のバージョンが存在する。  もともと写真は4種類なのだが、その4組をセットとして、トリミング加工の施されているもの、写真をさらに撮影したもの、解像度をあげるために手画像に手が加えられているものなど、写真そのものがまさにその数を増やし、戦後の世界に拡散されていったという経緯がある。  上述のリヒター展での『ビルケナウ』をめぐる空間構成を把握したとき、わたしは、ドイツのダルムシュタットで参加したワークショップで出会った、ゲッティンゲン大学の研究者ラモーナ・ベヒャウフ(Ramona Bechauf)の話を思い起こしていた。

 

  ベヒャウフの研究は、第二次大戦前後に流通していたカメラとそれに合致するフィルムの種類、技術的な制約、加工された画像からわかる「オリジナル」のサイズの予測、写真にまつわる証言などの詳細な検証をもとに、『ゾンダーコマンド写真』の起源をたどっている。そして、強制収容所の「こちら側」と「向こう側」を危険を冒して行き来した≪内外をつなぐ抵抗組織ネットワーク≫の存在と、彼らによる写真の≪複製≫のプロセスにこそ意味があることを説くものである。  ベヒャウフによれば、1945年7月にポーランドの報道雑誌『プシェクルイ(Przekrój(「横断面」の意))』に掲載された画像が最初に「ゾンダーコマンド写真」を紹介したものであるという。アウシュヴィッツにおけるナチスの戦争犯罪の視覚的証拠が、すくなくともその現場となったポーランドで、初めて公刊された。  『プシェクルイ』の誌面の写真は、トリミングとリタッチの加工が施されたものだ。のちにジョルジュ・ディディ=ユベルマンが 『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』で分析した、あの斜めになった、黒い部分が多くを占める写真ではない。被写体――死体を焼却する様子――が写りこんだ部分だけが、切り出され、拡大され、修整され、掲載された。  ベヒャウフはさらに、トリミングのような加工が施される前の「ゾンダーコマンド写真」にも、いくつかのが「写し」が存在する点に注目した。  1960年にアウシュヴィッツ博物館のアーカイブに最初に寄贈された「ゾンダーコマンド写真」は、ヴワジスワフ・ピトリク(Władyslaw Pytlik)というポーランドの抵抗組織に属していた人物が保管していたものである。しかしピトリクはこの時、彼の所有していた写真そのものは渡さず、アーカイブはその写真から作成したコピーをコレクションに収め、研究者に提供してきた。1985年、ピトリクの死後、彼のもっていた写真もアーカイブに寄贈され、ようやく「オリジナル」が手に入るようになったかのように語られることもある。しかし、元を辿れば、ピトリクの所有していた写真も持ち出されたネガを現像した「オリジナル」の写真ではなく、そこから加工されて流通した、ひとつの版にすぎない。  初めにカメラを収容所に持ち込んだひと、火葬場の内部から外にレンズを向けてシャッターを押したひと、フィルムを収容所の外に持ち出したひと、カメラを埋めて隠したひと、持ち出されたフィルムを地元の協力者に渡したひと、ネガから最初に現像したひと、加工された写真をさらに他の人に届けたひと、写真の写真を撮った人、それを国外に送付したひと、そして写真の複製をもとに新たに現象を行ったひと。名前のわかっている人物もいるものの、多くははっきりと名の残されることのなかった、無数のひとびとの連関――これが、たった一人ではなし得なかったナチスの戦争犯罪の接写を可能にした。  このように、「ゾンダーコマンド写真」は――そしてあらゆるアウシュヴィッツの視覚化は――「複写」による増幅と流通のプロセスを含む≪多面的な声の物語≫(ベヒャウフ)として読み解かれねばならない。  ***  『関心領域』のうちに閉ざされず、内と外を行き来しながら命をかけて抵抗し、何かを伝えようとしたひとたちがいたように、「向こう側」と「こちら側」の越境の可能性を信じることが、現代のわたしたちにも求められている。  1947年にワルシャワで開かれた裁判では、ホロコーストの視覚的証拠として(おそらくトリミング加工されたバージョンの報道雑誌の)「ゾンダーコマンド写真」が判事に提出され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長であったルドルフ・ヘスの審判に用いられた。収容所内での処刑という判決が下り、彼が暮らした邸宅からわずか50メートルの距離に設置された絞首台で、刑は執行された。  グレイザーは、ソワ川(ポーランドを南北に流れるヴィスワ川の支流)のほとりで考え事にふけるヘスの様子を描き出している。その川の向こう岸は、「関心領域= Interessengebiet」でも絶滅強制収容所の敷地でもない空間が存在した。そこには今も、過去から現在を見つめ返す、豊かな緑の大地が拡がっている。 ---------- *Ramona Bechaufの発表を聞いたのは、2021年8月に開催されたドイツ・ポーランド研究所(Deutsches Polen-Institut, Darmstadt)の「記憶の政治」をテーマとする夏季ワークショップの場でのことである。今回の執筆にあたり、彼女が同様の報告を行っている学会発表の映像(ハンガリーのホロコースト・メモリアルセンターYouTubeチャンネルの動画)も参照した。 Ramona Bechauf. “Handling the Sonderkommando Photographs. A Praxeological Approach to Historical Photographs.” From Conference: Reflections on Images of the Holocaust in Central and Eastern Europe. (07 Dec. 2022): https://www.youtube.com/watch? v=blAoq3Pzw4c ----------

中井 杏奈

 

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