イエスは、「十字架刑」上で、神ヤハウェに「見捨てられた」と認識した!

だから、神に、何故なのかを、必死に、問うた!

しかし、神は、沈黙だった。

最後に、イエスは大声を上げて、殺されていった。

 

それ以前は、

イエスは、「神の指」で、病人からサタンを追い出していたので、

十字架刑の上で、神ヤハウェが、何とか奇跡を起こして、

ここから救って下さると、固く信じていたのだろう。

 

しかし、

神は、沈黙だった。

 

「洗礼者ヨハネ」から、ヨルダン川で、

罪の赦しにいたる、過去の自分に一旦死ぬ儀式「浸水礼」を、

受けた時は、

天からの声が「我が愛する子」とイエスの耳に届いたのに、

十字架刑の場合は、神ヤハウェは、最後まで、沈黙だった。

 

〇 〇 〇

 

大貫隆は、

「神への懸命な問い」

「イメージ・ネットワークの破裂」

と、解釈する。

 

 

マルコによる福音書注解 1 

(リーフ・バイブル・コンメンタリーシリーズ)

1993/4/1 大貫隆(著)

==或る書評より
現在は版元に回収、廃棄処分されている貴重な本です。手に入れることができ、感謝です。
 
 
==或る書評より
預言者には、神からいろいろな啓示が与えられる。
1987年には、下の編書の中で、新約聖書学者・佐竹明が、ルカ福音書の記事から、
『「わたし(=イエス)は、サタンが電光のように天から落ちるのを見た。…」この言葉に注意して欲しい。』(P28)
と指摘し、それを読んで非常に驚いた。
その寄稿講演内容は『イエスと神の支配』。

「イエス」と「その師のユダヤ教の改革者ヨハネ」との宗教思想の共通点と相違点を明確にして、
イエスの平和思想の独自性を述べていた。

その後、このルカ福音書の同じ箇所を、新約聖書学者・大貫隆も重視したのである。
この二人の巨大なといえる新約聖書学者が重視したので、この記述の「確実性はより高まった」。
なお、佐竹は黙示思想が専門であり、大貫は、ヨハネ福音書・グノーシス思想が専門である。
 
イエスという経験 (岩波現代文庫)
 

イエスという経験 (岩波現代文庫)

2014/10/17 大貫隆(著)

一人の歴史上の人物であったイエスは、彼自身の「今」をどう理解し経験していたのか。
はじまりの回心体験を核として編みあげられた表象とイメージのネットワークにせまり、
復活信仰から生誕へと遡るキリスト教の「標準文法」とは逆向きにイエス物語を読みなおす。
現代に生きるイエス像をヴィヴィッドに描く画期的イエス論。
 
==或る書評より
本書が史的イエスに迫る切り口は極めて斬新に映るが、その意図するところは明確である。
数多の学者が、イエスの言行に比喩的解釈を施したり、精神的・倫理的意味を見透かしたりすることによって、
神話性を除去しながら現代的意義を回収することに躍起になっているのに対して、
著者はそのような性急な態度を戒め、
まずは人間イエスがどこまでも一人の古代人であったことを明証しようとするのである。

そのために著者は、
イエスが呪縛されていたところの諸々の時代制約性を明示しつつ、
イエスが把持していた神話的な「イメージ・ネットワーク」
(いわばイエスの宇宙観・世界観・人間観・神理解などの複合的総体といったところか)
を描出することを企図し、
そして、この「再神話化」の作業を踏まえたうえで、
改めて非神話化が試みられるべきであると主張するのである。
 
しかも、その非神話化はイエスの個々の言動に対して行われてはならず、
イメージ・ネットワーク全体に対してなされるべきであることも強調している。
「再神話化」と「包括的な非神話化」という二つの学問的業作が明確に意識されているが、
冒頭でも述べたとおり、これは非常に斬新な方法論であると言えよう。

簡単に各章の内容を紹介しておく。
第Ⅰ章では、国内外のこれまでのイエス研究に対して批判的考察が加えられる。
第Ⅱ章では、イメージ・ネットワーク成立の背景として、イエスの時代の歴史的・文化的・宗教的状況を概観する。
第Ⅲ章では、イエスのイメージ・ネットワーク内にある諸要素が福音書から析出されるが、それらの要素は本書の意図に沿ったものである以上、イエスの神話的思考様式を色濃く示すものである。
第Ⅳ章では、それらの諸要素がイエスの活動を通して、イメージ・ネットワーク内で発展・再構成されていく様が描かれる。
第Ⅴ章では、イエスの特徴的な行動に焦点を当て、そのイメージ・ネットワークがどのようにして当のイエスによって生きられたかを追う。
第Ⅵ章では、イエス最後の日々をその内面を抉りながら綴り、
続く第Ⅶ章では、キリスト論や贖罪信仰の成立の過程において、イエスのイメージ・ネットワークがいかに書き換えられていったかを叙述している。
 
最終第Ⅷ章では、イエスの「全時的今」という特殊な時間理解において、非神話化の作業が実際に試みられる。
全時的今という非線状的時間理解が、アウグスティヌスやベンヤミンなどの論じる時間感覚との類比で語られ、
そしてこの全時的今が「時間の中への魂の分散を癒し」、
救済史観や摂理史観の不条理を撃つものであるとする。
 
末尾では神の国の非神話的要素が列挙され――この辺りは本論の内容からいっても、やや唐突な印象を受けた――、本書は閉じられる。
要するに、出来る限りイエスの視点に立って、イエスの生きた人生と世界と宇宙を展望し解釈することが強く意識されているのである。
 
著者があらかじめ態度表明しているとおり、共観福音書からイエスの神話的・前合理的言動に的を絞って選択的に取り出しているという限りにおいて、その手法もある意味恣意的・断片的ではないかとの反批判を招きそうではあるし、またその再神話化という志向性が特異的かつ異端的でもあるため、諸々の反発も予想されよう。
 
しかしながら、この辺の事情を勘案してもなお、本書で展開される論理構成は、資料性に乏しい聖書学の限界性の中にあっても、また他の学者に比しても、非常に緻密なものであろう。可能な限り編集史的・様式史的研究の成果を踏まえつつ、後代の改変や付加から区別される真正のイエスの言葉を厳密に同定しようしているのである。その点非常に説得力があり、玉石混交のイエス像が乱立する中で、より実像に近いイエス像を打ち立てることに成功していると言ってもよいのではないだろうか。

思えば、著者が暴こうとした、
イエスが悪霊の実在性や、
神の国が「三日後」に
実際に誰の目にも見える形でやって来ると信じていた
などといった「衝撃的新事実」は、
人間の意識と世界観の歴史的変遷の歩みに思いを致せば、至極当然の事実なのではないだろうか。
 
このようなイエスという人物の限界性・時代制約性という当り前の事実を覆い隠していたところのものが、
つまるところ「無自覚的なイエスの私物化」であり、「私のための神という偶像への帰依」にほかならないのだろう。
本書は、そのような信仰者の欺瞞的態度――聖戦を主唱するキリスト教原理主義者だけの問題ではあるまい――
を暴き出し指弾するかのような告発者的性格をも帯びており、それゆえ本書が「躓きの石」となる者も多いだろう。
その真の姿を暴き出されてしまった古代人イエスを生理的・心情的に拒絶するのではなく、
そのような限界性をも受容した上で、
いかにイエスを非神話化し、キリスト者としてイエス・キリストおよび神と向き合っていくべきなのか、
これこそが著者によって我々に突き付けられた普遍的な課題であるように思う。

最後に。本書には高度な学問性のみならず、あとがきでも言及されているように、文章の端々に著者のパトスがほとばしっているように感じ取られたことも手伝って、お気に入りの一冊になった。「神の独り子たるイエス・キリスト」の脱神格化では飽き足らず、「史的イエス」の非神格化にも乗り出そうとするパトスを持つ人に是非お薦めしたい一冊である。
 
==或る書評より
 熱にうかされるようにして一気に書いた、ということがあり、確かに幾つか問題のある本だろう。
けれどもその「問題」を(今後の)「課題」として見守ってみたいと思わせてくれる、私にはそんな本だった。
 本文にもあるように、本書を書く契機となったのは、ブッシュの原理主義的な演説である。
こうした原理主義への疑問からこの道に足を踏み入れた著者は、
そうした演説を含む原理主義の脳裏にあるキリスト教の
「標準文法」(「神の子」イエスの生誕から「神の国」の到来まで)が、
史的イエスからいかなる意味でズレて成立しているのかを、積年の蓄積から明らかにしようとしている。
この著書の見所は、それゆえ、こうした契機に応えるために史的イエスを析出してみせたところにあるように思われた。

 その課題は、イエスが「古代人」「神話的・前論理的」といった前提の下に、資料の「論理」が了解しかねるところに類型的な「イメージ」論を挿入させてゆくところにあり、これは方法論的にはかなり異質な志向性を持ったものであるだけに、イエスの歴史的事件と噛み合わせるには諸刃の刃といった感があり、そこが評価の分かれるところになるだろう。
 
しかしながら、これまでの先行研究が避けてきた、もしくは、上手く説明しかねてきたところに、イエスが「神の国」というイメージを抱いたと想定することで、ある一貫した展望が見えてくることは示せているように思われた。

 何よりも私が感心したのは、「還暦を前に」「自立」をしてみせたところであった。これはこの人生段階になればなおさら、なかなかできるものではあるまい。誰にとっても人生は初めてなのだ。その最初の一歩が多少ぐらついていても、それはちゃんと「ステージについた」ものとして歓迎したい、と私は思った。
 
 
==或る書評より
 著者は古代キリスト教学の第1人者であるが、2003年のイラン戦争開戦に際してブッシュの「悪を滅ぼす十字軍」の発言に危機感を覚え、1ケ月強で本書を書き上げた。著者にはイエス研究の蓄積があるとは言え欧米日の最新の学術成果も取り込み、聖書中のイエス生前の真実の言葉と死後の福音書編集者や原始キリスト教会による付加部分とを丁寧に論拠を付して腑分けしており、中身は濃く簡単には読み飛ばせない。
 数多ある歴史上のイエス伝の中で、本書の独自性を2点挙げよう。1つは、イエスの生涯を、洗礼者ヨハネとの出会いから、ガリラヤでの活動、エルサレムでの十字架刑まで順を追って扱う。これは復活信仰から生まれたキリスト教の「標準文法」によってイエスの生涯を復活から生誕へと逆照射し、成人前(受肉、誕生等)と死後(復活、昇天、終末等)を含めて物語化している部分を排することを意味し、イエスの実像に迫る有効な手段となっている。2つ目は、ナザレに生まれ神話と前論理の世界に育ったイエスの生涯を古代人として描いていることである。イエスは宇宙が天、地、冥府の3層からなることを信じ、サタン墜落の幻視を契機に「天上の祝宴」と「アッバ父なる神」をメタファに「神の国のイメージ・ネットワーク」を構想し人々に説いた。
 感動的だったのは神殿冒涜、最後の晩餐、最後の祈り、逮捕と裁判(イエスの沈黙)、十字架刑(イエスの絶叫)と続く第Ⅵ章「最後の日々」で、世間にも弟子にも本意を理解されなかったイエスの孤独と無念さである。また、著者は最終章でイエスの「神の国」のリアリティとして、①神は細部に現れる②「いのち」のかけがえのなさ③神の無条件の赦しと人間のエゴイズム④自分の責任で物を言う、の4点を挙げているが説得力に富む。
 本書の読後感として信徒の方には賛否があるかも知れないが、非信徒の評者にとっては素直に感心した。また、これからの聖書の再読も楽しみだ。
 
 
==或る書評より
期待外れでした。
「長年文献学に携わってきた身」の大貫先生にとって、「いささか荷が重い」課題に取り組まれたと書いています(282頁)が、
初代教会から教父への思想の流れを「文献学」的に論述されることを期待していましたが、
そうではありませんでした。
 268頁以降に原始キリスト教全体についてまとめられていますが、この文書を書いた人たち・教団のつながり、さらにはギリシャ哲学などの影響も丁寧に論じてほしかったです。
「標準文法」の担い手があいまいです。「やがて再臨する神の子・イエス=キリストの道のりが完成」するとありますが、それはどこで、どのように、だれがなさったのか、長年取り組んでこられた文献をもとに論じてほしかったです。
 論述の詰めに飛躍を感じるばかりではなく、キリスト教の歴史の基礎的な事柄にも疑問があります。「後6世紀以降の使徒信条」とありますが、使徒信条に至るまでの他の信条、とくに2世紀半ばと言われている「古ローマ信条」にも再臨は告白されています。
 
独特な「標準文法」という切り口で初代教会、古代教会の歴史を語ろうとするのですが、「伝統」や「伝承」という切り口でこれまで語ってきた教会史とそれほど次元の異なるものではないどころか、「標準文法」だけが強調されて、その担い手やギリシャ哲学など他の思想からの影響が明らかにされていません。また「多様性」を主張している場面がありますが、キリスト教はアントニウスなどの修道生活を求めた流れもあれば、贖罪ではなく聖化を重んじる東方教会もあり、そればかりではなく、パコミウスの修道規則がラテン語訳されてベネディクト修道会というキリスト教に多大な影響を及ぼした流れもある。
キリスト教の歴史を大貫先生の「標準文法」で明らかにしようとするとき
そういうものが全く無視したのはなぜなのかわからない、と一般のキリスト教の歴史を読む人は感じるでしょう。
 
 
 

イエスの時

2016/7/12 大貫 隆 (著)

古代人イエスが抱いた終末のイメージ・ネットワーク──
「地上に広がりつつある神の国」が編まれた背景を、
旧約とユダヤ教黙示文学に探り、時間変容の経験としてその救済のヴィジョンを論じる。
〈全時的今〉の時間論をパウロの十字架の神学、ベンヤミンの「今この時」と対比し、
姉妹篇『イエスという経験』を補強する、書下しイエス論。
 
==或る書評より

本書あとがきによれば、前著「イエスという経験」(岩波2003)に対する批判・論考への応答の中で

浮かび上がってきた諸問題を、体系的・組織的に論述することが本書の目的である(p.291)。

特に、古代における時間理解を巡る論考を中心軸としつつ、

パウロそしてイエスにおける時間理解と世界像に迫ることを試みている。


第1部では、旧約におけるアブラハム契約とモーセ契約との関係について取り上げ、それらのユダヤ教黙示思想への影響、また洗礼者ヨハネとの関係について論じている。

第2部では、イエスにおけるアブラハム理解についての論考を通して、イエスの時間理解・世界像、さらにはイエスの自己理解に迫ることを試みる。

第3部では、原始エルサレム教会からパウロへの信仰理解の展開を追い、パウロの時間理解の分析を通してその十字架理解・救済理解について論述し、さらにG.アガンベンのパウロとW.ベンヤミンの関係についての論考(上村訳「残りの時-パウロ講義」岩波2005)を手懸かりに、パウロの時間理解について論じている。

最後に著者は、イエスとパウロの最大の共通点として、

「神の国」を「(永遠の)生命」として理解している点を挙げている。


前著は、史的イエス研究の視点から出発して、

イエスの「内面」、いわばその自己理解に迫ろうとする試みであったということが出来る。

それに対して、本書は旧約からパウロに到るまでの、いわば

イエスを取り巻く聖書的な「背景」を分析することで、

イエスがどのような環境を生きたのかに迫ろうとしている。

それはまた、古代社会の中で発せられたイエスの救済のメッセージを、

今日に生きる私たちはどのように受け取ることができるのか、という問いかけに繋がっている。
そうした意味で、本書は新約学という限られた学術領域におけるだけでなく、

幅広い読者層に対して開かれた問題を提起していると言える。