臨済録読書会の成果!
臨済宗は「日本曹洞宗での坐禅修業期間」はカウントしない。
これは正当である!
永平寺二代「懐奘」禅師、三代「義介」禅師、
太祖「瑩山」禅師は、日本達磨宗で、修業を完成された「法系」である。
比叡山の天台宗は「天台密教」「日本天台本覚思想」のメッカであり、
「日本達磨宗」の初祖「大日・能忍」は、名前から「大日如来」である。
つまり、その内容は「密教思想の坐禅」なのである。
だから「三宝禅」教団は「梵我一如」ヒンデゥー教になっているのである。
他方、
「臨済宗」は「白隠」禅師が、中国禅を集大成して、修業体系を整備して、
「中国の純粋禅」を、現在にまで伝えているのである。
密教は「バラモン教=ヒンデゥー教」である。
他方、
「中国禅」は「老荘思想」つまり、
主体性を確立して、「道・ダオ」に任せる。
「無為自然」「無事」「一無位の真人」・・・
ここでは「道・ダオ」と「自己」とは、次元が異なる。
「自己」が「道・ダオ」になることは、原理上ありえない。
「梵我一如」の「太祖・瑩山禅師」の法系での「坐禅修業期間」は、
「臨済宗」では、カウントされないのは、至極、当然である!
現在、参加させて頂いている
毎週日曜の「早朝坐禅会」の御住職は、今年、喜寿を迎えて、
鎌倉五山第二位「円覚寺」の僧堂で、
足立大進老師の下で、修業を完成させた方である。
仰ることは、本質を述べておられる。
以下は、日本曹洞宗の瑩山禅師の「梵我一如」そのもの・・・
手桶に水を汲むことによって水が生じたのではない
「天地一杯の水」が手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない
「天地一杯の水」が天地一杯の中にばら撒かれたのだ
人は生まれることによって
生命を生じたのではない
「天地一杯の生命」が
私という「思い固め」の中に汲みとられたのである
人は死ぬことによって生命が無くなるのではない
「天地一杯の生命」が私という「思い固め」から
天地一杯の中にばら撒かれるのだ
ここの
「天地一杯の生命」は、
「宇宙原理・ブラフマン」、
「天地創造の神ヤハウェ」、・・・
と、同一である。
「梵我一如」思想そのものである。