新約聖書〈1〉

マルコによる福音書・マタイによる福音書

1995/6/9 佐藤 研 (翻訳)

さとうみがく
1948年生まれ。専攻、 新約聖書学、現在、 立教大学文学部キリスト教学科教授、
 1995年から96年にかけて、新約聖書全5冊(岩波書店)の編集・校閲を担当した。
著訳書:『マルコによる福音書 マタイによる福音書』新約聖書I、『ルカ文書』新約聖書II(1995)、
『悲劇と福音──原始キリスト教における悲劇的なるもの』(2001)、
禅キリスト教の誕生』(2007)、
『はじまりのキリスト教』(2010)、『旅のパウロ』(2012)など。
 
==或る書評より
新約聖書研究の今日の水準を示した研究書である。
有名な「山上の垂訓」の箇所では、「幸いだ、心の貧しい者たち、天の王国は、その彼らのものである。」と佐藤研氏は訳している。訳注では、「直訳すれば、〈霊において乞食である者たち〉。自分に誇り頼むものが、一切ない者の意。」と説明されている。
つまり、信仰によって心が満たされていない者たち=信仰を持たない者たちと解釈することが出来る。あるいは、〈霊において乞食である者たち〉とは、神に祈らず、霊の恵みをまったく与えられていない者たちと解釈することも出来よう。
新共同訳の〈心の貧しい人々〉と同じ意味であることにも気づく。
佐藤氏は、原文に忠実に、〈霊における乞食〉と解釈したのだ。
フランシスコ会訳のように〈自分の貧しさを知る人〉と訳し、
地上の富では心は満たされないこと、地上の富と霊の富の違いを知る者という深読み(意訳)とも異なり、
佐藤氏訳はあくまでも聖書を原文通りに解釈する立場を示している。
聖書を原文から学びたい人にとって、本書は必読の文献(研究書)である。お勧めの一冊だ。

 

 

〇 〇 〇 〇

 

キリスト教は、神ヤハウェに対峙して「言葉で」声に出して「祈る」

 

つまり、

「黙想」ではないのである。

 

心で思っているだけ、では、ダメなのである。

肉体を使って、具体的に「言葉」に組み立てて、

それを、実際に、口から「声に」出して、

自分の外に存在する「神ヤハウェ」に対して「祈る」ことが必要なのである。

 

何よりも、イエスご自身が、これを実践なされていた。

 

佐藤研先生は、この「祈り」という行為の重要性が、理解できていない。

・・・と思う。